50代から100歳以上の著者の本から人生後半のA to Zを考えてみる本連載「50 to 100」。
12冊目に紹介するのは、歌手でタレントの研ナオコさんの著書『70歳、すっぴん人生』(Gakken)です。昭和の時代から抜群の存在感で活躍し、令和の現在でも自身のYouTubeチャンネル「研ナオコ Naoko Ken」の登録者が22万人を超える*など人気の研ナオコさん。
*2023年9月13日時点
本書は2023年に70歳になった研さんが、これからの人生を楽しむコツをたっぷりと伝授。作家の南綾子さんはそんな研さんに「ギャル」を感じたと言います。
本質を見抜こうとするギャルの眼差し
以前、友人の小説家吉川トリコさんの『マリー・アントワネットの日記』の出版イベントを見にいったとき、トリコさんが「ギャルはいつだって本質を見抜いている」と言っていた。本書を読んだあと、なぜかそのことを思い出した。
つまりわたしの中で研ナオコさんはギャルなのだ。しかし、ギャルとはそもそも一体何だろう? 試しにググってみると、デジタル大辞典にはこう書かれていた。
“女の子。若い女性。特に、明るく社交的で、流行のファッションを取り入れるなどの行動を通じ、感覚を共有しようとする女性についていう。”
失礼を承知であえて言わせていただくと、研さんは上記の「明るく社交的」以外は当てはまらない。しかしわたしはやはり研さんはギャルであると思うし、要するに今日においてギャルとは、ある特定の服装、メイクをした若い女性という意味に留まらず、ある特定の生き方をあらわしたものになっているのではないか、とわたしは思うのだ。
その生き方とはつまり、本質を常に見抜き続けること。
コギャルど真ん中世代を振り返って
そもそもギャルとはいつ頃から存在するのだろうか?
ネットであれこれ調べてみたところ、80年代の不良やレディース文化がそもそもの発祥だとしているサイトもあれば、バブル時代のいわゆるボディコン女性たちがその始祖だとするサイトもあった。
わたしは80年代に子供時代を過ごしたが、テレビでたまに男性タレントなどが若い女性のことをギャルと言っているのを耳にした気がする。それはギャル=若い女性という意味合いが強く、特定のファッションやメイクをしている女性をさしている感じはなかったと思う。
そして何を隠そう、わたしは1996年に高校入学したコギャルど真ん中世代であるのだが、当時のコギャルは学校を卒業したらコがとれてギャルになるという自覚を有していたかというと、うーん、記憶はあいまいだが、そんな感じはなかった。
当時はとにかく”女子高生”という肩書に超高値がついていて、コギャル的なファッションをしているかということよりも、女子高生であるかどうかが重要であった。だから、卒業の門を通り抜けた途端、ただの若い女性になる。実際、わたしの周りの多くのコギャル達は、卒業と同時に肌を焼くのも脚を出すのもやめて、いわゆる赤文字系に進んでいった。
そこからヤマンバとかマンバとか白ギャルとか出てきて、女子高生であるかどうかが重要視されなくなり、つまり高校卒業後もそれまでと同じファッションを続けることが当たり前になって、派手な服装をした女性を総称してギャルというようになった——それがわたし自身の印象に基づくだけの、なんとなーくのギャル変遷史である。
わたしがメイクに苦手意識を持つ理由
このギャルという言葉が、なぜ生き方をあらわすようになったのか。
その肝は、研さんの例のYouTube動画600万回以上再生バズの要因となった、メイクにあるとわたしは考える。
わたしは本書を読む前から、この研さんのメイク動画が話題になっていることはしっていたが、見たことはなかった。失礼ながら見たいとも思わなかった。別に研さんが嫌いだとかそういったことではなく、わたしはメイクに苦手意識があり、そもそもしなくて済むなら一生せずに済みたい、ぐらいに思っているからだ。
特に苦手なのがアイシャドウなどのアイメイクだ。わたしは一重まぶたで、昔からアイシャドウの塗り場所?がよくわからなかった。しかもここ数年は目の上の皮膚が加齢のせいでたるんで、そのたるんだ皮膚が二重まぶた風だが決して二重ではない珍妙な状態になり、どこにどう色を重ねたらいいのかますますわからなくなった。リップも苦手で、顔の色がやや白いせいかはみ出すと目立つ気がして、濃い目の色のリップがどうしてもうまく塗れない。
結局、どこまでいってもわたしはナチュラルメイクという名の、誰にも気づかれない、してもしなくてもどっちも同じの無意味メイクしかできないのだ。
今回、研さんの動画を見て、わたしの苦手意識のその理由が見えてきた。
研さん——すなわちギャルたちは、メイクをした顔の違和感など気にしていないのだ。どこまでも太くアイラインを重ね、どこまでも盛大にまつげを伸ばす。だってかっこいいから。
本質を見る、とはそういうことかもしれないと思った。メイクアップした顔も素顔も自分である。それ以外の何者でもない。
一方わたしは、メイクをすることによって何かを隠し、別の何かになろうともくろんでいる。しかし何になりたいかはっきりしないから、何をやっても違和感がある。邪魔をしているのは自意識だ。
今時ブルーのアイシャドウってダサいかな? この年齢でピンクのチークってやばくない? そんなことを考えながらやるもんだから、何をやっても変に思えて、最後はやーめたとなってしまう。
ギャルは本質を見抜く。それは、自分は何者で、どんな自分でいたいかを常にまっすぐ見ているということ。それができなければ、このSNS全盛時代の今、もうギャルではいられない。だからギャルは生き方を表す言葉となった。かっこいいからやる、気合がはいるからやる。そこまで考えて、わたしは研さんの1978年発表の代表曲「かもめはかもめ」の歌詞を思い出した。
<かもめはかもめ/孔雀や鳩や/ましてや女にはなれない/あなたの望む素直な女には最後までなれない>
やはり研さんは筋金入りのギャルだと思う。