人生の後半とどう向き合いたいか「50 to 100」として、50代から100歳以上の著者の本から考えてみる本連載。
三冊目に紹介するのは、フリーアナウンサーとして活動する堀井美香さんの『一旦、退社。 50歳からの独立日記』(大和書房)です。
ジェーン・スーさんとともに、人気ポッドキャスト番組「OVER THE SUN」のパーソナリティを務める堀井さん。50歳を迎えることをきっかけに、TBSを退社することを決めた堀井さんが、退社するまでの約1年を日記のように綴っていった本書。普段テレビを見ないという作家の南 綾子さんは、この本を読むのが「少し挑戦だった」と言います——。その理由とは?
テレビを見ていると、胸がもやもや
大っっっっ変な失礼を承知で書くが、わたしは堀井美香さんのことをよく存じ上げていなかった。言い訳をすると、我が家にはテレビがない。もう何年もない。テレビを見なくなると、日本の芸能界全般に対する興味や関心が薄れていってしまった。ネットでいろいろな名前は見る。ラジオで声を聞いたり、街中の広告で何度も同じ顔を目にすることもある。でも、具体的な肩書や仕事の内容はわからないという人がいっぱいいる。女優なのかお笑い芸人なのかはたまたアナウンサーなのか。堀井さんもそのうちの一人だった。
このいわゆる”テレビ離れ”、今ではもはや少数派とはいえず社会現象レベルで増えてきたが、その要因としてよくあげられるのが、テレビ番組の質の低下である。要するに「つまらないから見ない」。わたしもそうだといえばそうなのだけれど、もう一つ違う理由もあって、それは、テレビを見ていると嫉妬と羨望で胸がもやもやするようになってきたからだ。
テレビは基本、成功している人か成功しかけている人しか出てこない。その人たちがバラエティ番組で、やれ先日の月給がウン百万円だ、罰ゲームでウン千万の車を買った、そんな成功自慢ばかりしている。私生活も仕事も全くうまくいかない日々を過ごしていた三十代の頃は、そういったものを目にするのがすごく嫌で、そんな妬みにとらわれてしまう自分自身の心がもっと嫌だった。さらに、そんな醜いわたしの心を強くかき乱すものの一つが、女性アナウンサーという存在だった。
容姿端麗、高学歴、育ちの良さ、そして何より、むき出しの野心。すべて自分に欠けたもの。とくに四つ目の”むき出しの野心”というのがクセモノで、何事もすぐにどうでもいいやとあきらめてしまいがち、というか、あきためたふりをしてできなかった言い訳をしがちなわたしは、”どんな手段をつかっても有名になってお金も手にしたい”という欲望を隠さないタイプの女性アナ(そんな人はおらず、わたしがうがった見方をしすぎているだけかもしれない)を目にすると、むくむくと劣等感がわいてくる。どうしてわたしは、あんなふうにがむしゃらにできないんだろう、と。
おそるおそるページをめくると…
今回、この記事のために本書を読むのは、わたしにとって少し挑戦だった。やりがいと華やかさに満ち満ちた仕事、充実した家庭生活、キラキラした毎日。そういうものを読んで、いかにわたしの精神は耐えられるか(おおげさ)。
が、読みはじめてすぐ、これは想像していた本とは違うな、と思った。この本は十分すぎるほど、わたしのような”女性アナウンサーという存在を偏見に満ち満ちた目で見る層”を意識して書かれている気がした。しかしそれは決して、ネットに悪口を書かれないようにしよう、誰からも悪く思われないように当たり障りのない内容にしよう、などといった低い志からではなく、堀井さん自身が、自分より恵まれているように見える誰かに対し、勝手に重たい感情を持って心を乱されないようにしよう、とかなり意識して生きてきたことがあらわれているのではないかと思った。
この日本で女性として生きていくのは結構しんどい。常に周りとあらゆることを比較され、ランク付けされる。女性アナウンサーの世界ともなるとその重圧はかなりのものだろう。その世界の中で堀井さんの足はずっと地に足がついている。べたったりとつま先からかかとまで。
キャリアが停滞するのもいとわず、入社して数年で結婚出産したこと。化粧品は試供品ばかりなこと。お気に入りのバッグはおばあちゃんの形見感を醸し出す15年物のアンテプリマ。住まいは局から往復二時間の東京郊外。アナウンス業の中でも比較的地味なイメージのある朗読やナレーション業に精を出すこと。これらを堀井さんはナチュラルに自然に、優雅にスマートに選びとったのではなく、自分を見失わないために、地に着いた足を浮かさないために必死に選びとっている。その必死さに、わたしの醜い心はかき乱されずに済んだ。
妙にほっとした気持ちになった理由
テレビ局の中で生きていなくとも、この日本で女性として生きていくのはまあまあしんどい(大事なことなので二回書きました)。今はSNSの発達で、しんどさが水の波紋のようにひろがっているように感じる。常に誰かと比較されること、比較してしまうこと。仕事、結婚、子供。そのすべてを手にした女性がもっとも偉く素晴らしい存在に感じてしまうこと。堀井さんは、周りのことなんか一切気にせず、自然体で生きてきたから今の成功があるんですよ、と涼しい顔で言わない。
ああそうかと思った。周りのことなんて気にしない、なんて涼しい顔をする必要なんかないんだ。気にしないように、なんとかがんばって生きてます、と言ってしまってもいいんだ、とこの本を読み終わったときになぜか感じて、妙にほっとした気持ちになった。
仕事もやりたいこと、意義のあることである必要はない。ただやると決めた。だからやる。個性的でなくてもいい。型にはまった生き方でも全くかまわない。自分を見失わないことだけには気をつける。華やかでなくても、誰かより低い評価を受けていたとしても、しっかり自分の道を踏みしめて歩いていたら、見えてくる幸せもあるよ、とこの本は伝えてくれる。
どうしてほかの誰かのように生きられないんだろう。そんなふうに感じてしまうときに、手に取ってページをめくりたくなる一冊だった。
(南 綾子、写真:西田優太)