DJあおいさんと「仕事がデキること」について考えていく連載「私は仕事ができない。」60回目のボヤきは「私、怒られたいの」です。
【今週のボヤき】
「怒ってくれる人」がいないのが悩みです。チームのリーダーをしているので、私が後輩を引っ張っていく立場なのですが、私自身まだまだ成長したいと思っています。自分の裁量で仕事ができるのはありがたいのですが、いつの間にか“お山の大将”になってしまっているのではないかと不安になります。思い切って他の会社に転職したほうがいいのかなとぼんやり考えています。
自由じゃなかったあの頃
学生の頃の自由というものはまわりの大人が管理しているもので、その与えられた自由の枠を出ようとすると、親や先生が叱ってくれるんですよね。
それが煩わしくもあり鬱陶(うっとう)しくもあり、窮屈で不自由な思いを強いられて、自由な大人を羨(うらや)んだりしたものですが、大人になるとその窮屈で不自由だった学生時代が、懐かしくもあり羨ましく感じることがあるんですよね。
何が羨ましいかと言えば、自由の対価である責任の大きさ。
学生時代は与えられた自由も小さなものですが、それに伴う責任も小さなもの。
少なくともまだ生活を背負う責任まで背負っていませんから、その軽装な責任が羨ましく感じたりするわけです。
何をやっても自由なのが「大人の世界」だけれど…
でも社会に出てみると、誰も自分の自由なんて管理してくれないんですよね。「ここから先は行ってはいけません」という標識もなければ、「落石注意」という標識もありません。
その気になれば明日から無職になって流浪の旅に出掛けることもできますし、その気になれば明日からアイドル目指してレッスンすることもできますし、その気になれば妻帯者と不倫することだってできちゃうんです。
ただ、その行動の責任はすべて自分で背負っていかなければならないということ。
何をやっても自由だけど、何をやっても自己責任なのが大人の世界。
だから無責任な大人ほど自分の責任能力を超えたことをしてしまい、その責任の返済に汲々としてしまったりするのです。
それもまた、大人の自由の範疇(はんちゅう)でもあるんですけどね。
たまには部下に「甘えて」みて
大人に与えられた膨大な自由には膨大な自己責任が伴うものであり、その責任の重さは感じて然るべきもの。
「叱ってくれる人がいたらいいのに」という願望は責任の重さを感じている証であり、それは決して悪いことではないと私は思います。
しかし責任感が強すぎる人は何でも自分一人で背負い込んでしまいがち。
甘えることもできずに自責で潰されてしまう人も珍しくありません。
上の立場だからといってすべてを背負ってしまわないように、後輩たちにも少しだけその責任を分けてあげてください。
上の人から頼られるのは下の者は嬉しいものですからね、困ったときはお互い様、引っ張るのに疲れたらちょっとだけ背中を押してもらいましょう。
よい上司というものは部下に甘える技術を持っています。
それを部下から学ぶのもチームリーダーの役割だと思いますよ。