「恋愛禁止」が当たり前のように受け止められ、スキャンダルが起きれば謝罪が求められる。そして「嫌なら辞めればいい」と、個人の選択や自己責任に回収されていく──。アイドルをめぐるこうした空気は、日本社会のさまざまな場面とも地続きだ。深田晃司監督の最新作『恋愛裁判』(公開中)は、アイドルが所属事務所から提訴され、法廷に立つという展開を通してその前提を問いかける。「届けたかったのはアイドル業界にいる人たち」と話す深田監督に話を聞いた。
アイドルにとっての「主体性」とは?
——深田監督は監督業の傍ら、映画業界の働き方や制度について発信されてきました。本作は2015年に女性アイドルがファンの男性と恋愛したことで所属事務所から損害賠償を請求された事件を知ったことがきっかけということですが、そうした問題意識はと本作はつながっていますか。
深田晃司監督(以下、深田):正直、その点はそこまで意識していなかったです。ただ、映画を撮ることに限らず、表現というのは、結局は「自分には世界がこう見えている」という感覚を外に返していく行為だと思っていて。だから、たとえばアイドル業界をモチーフに映画を作ろうとしたときも、切り取り方はいろいろあるはずなのですが、僕自身が自然と関心が向いたのは、恋愛禁止のことだったり、働き方の問題だったり、そういう部分だったんだろうなと思います。
——制作には10年ほどかかっていますが、その間、さまざまな方に取材されたそうですね。どんな方々に話を聞かれたのでしょうか。また、ご自身の中に変化はありましたか。
深田:元アイドルの方、プロデューサー、マネージャー、振付師など、さまざまな立場の方に取材しました。取材を重ねてまず感じたのは、「アイドル」と一言で言っても本当に多様だということです。ダンスが好きな人もいれば、歌が好きで歌手を目指している人、俳優になりたくてアイドルを選んだ人もいる。ひとくちに「アイドル」と言っても、一括りにはできない存在なんだと強く感じました。
もうひとつ印象に残っているのは、取材の一環でライブを観に行ったり、アイドルのドキュメンタリー映像を見たりしていたときのことです。あるアイドルの約3年間を追った映像がネットに上がっていて見たのですが、編集が入っているとはいえ、少なくともそれを見る限り、本人が主体的に何かを決めている瞬間がほとんど映っていなかった。運営側のコントロールが非常に強いんじゃないかと感じました。
そこから「アイドルにとって主体性とは何なのか」という問いを考え始めて、それが結果的に物語の核になっていったと思います。

深田晃司監督
「嫌なら辞めろ」はアイドル業界の自己否定
——監督ご自身として、その問いに対して何か見えてきたものはありますか。
深田:明確な「答え」があるわけではありません。ただ、自分なりに考えていることはあって、それを映画の中で結論として押しつけるべきかどうかは別の問題だとも思っています。
ただ、恋愛禁止条項やアイドルとファンの関係性については、そろそろ一度立ち止まって見つめ直す時期に来ているのではないかと感じています。「恋愛したかったらアイドルを辞めればいい」という言説は今でもよく耳にしますよね。
でも、もし恋愛禁止が人権に関わる問題だとするなら、アイドルという仕事は「人権を無視しなければ成り立たない仕事」になってしまう。それって結局、アイドル業界そのものの自己否定なんじゃないかと思うんです。
たとえば映画業界で言えば、かつては長時間労働や過酷な環境、ハラスメントや「しごき」のようなものが当たり前とされてきました。でも今は、そうした状況を変えようという流れになっています。それでもなお「厳しい環境だからこそいい映画が生まれる」と根性論で正当化してしまうと、「人権を無視しなければいい映画は作れない」と言っているのと同じで、それは業界の自殺です。
同じことがアイドル業界でも起きてしまうと、業界の人やファンが「人権を無視しなければアイドル業界は成り立たない」と言い始めることになって、いずれ自滅に向かってしまうんじゃないか。そんな危機感を抱いています。時代が大きく変わってきている今こそ、一度立ち止まって考え直す時期にきていると思います。

(C)2025「恋愛裁判」製作委員会
齋藤京子がオーディションに参加 #MeToo後で空気は変わった?
——2017年の「#MeToo」前後で、ジェンダーの話題をめぐる空気が大きく変わったと感じています。ちょうどこの映画を作っていた時期とも重なると思うのですが、監督ご自身はその変化を制作の現場で実感することはありましたか。
深田:この作品に関わる変化という点で言うと、キャスティングの過程が分かりやすいかもしれません。主人公の山岡真衣をはじめ、グループのメンバーは俳優とアイドルの両面で探していました。リアリティという意味ではアイドルのほうが合うだろうと思っていたけれど、スケジュール的に難しいケースも多くて、両面で探していたんです。
ただ、初期の段階では、アイドル事務所に声をかけてもオーディションに来てもらえないことがほとんどでした。「アイドルが恋愛して、事務所から裁判を起こされる映画です」と説明すれば、事務所側からすれば喧嘩を売られているように感じるのも当然で、出してもらえないのは無理もない。実際、この10年の初期はそうしたやり取りを繰り返していました。
転機になったのは、(元・日向坂46の)齊藤京子さんがオーディションに来てくれたことです。撮影自体は2024年の秋ですが、同年の4〜5月頃に行ったオーディションでは、以前は断られていた事務所がアイドルを送り出してくれるようになりました。#MeTooの流れやジャニーズの問題も含めて、アイドル業界の中でも少しずつ変化が起きてきているのではないか、という実感はあります。

(C)2025「恋愛裁判」製作委員会
アイドルに対するコントロールが「より巧妙に」
——芸能界のそれまでの構造が崩れてきている?
深田:それが業界全体で、そこまで強い自浄作用が働いているかというと、正直まだ分からないというのが実感です。契約書に恋愛禁止条項を明記している事務所や、恋愛を理由に裁判を起こすような事務所は、いまは少数だと思います。
ただ一方で、抑圧の仕方やコントロールのあり方は、むしろより巧妙になってきているようにも感じています。「それは自分で選んだんでしょ」と誘導したり、「恋愛はしてもいいけどバレたらダメ」「発覚したらクビ」といった形で縛ったり。結局、恋愛をしてはいけないという風潮自体は、空気感としてほとんど変わっていない。それは事務所の問題というより、日本社会全体の空気なんだろうなとも感じます。
——どういう意味でしょうか?
深田:たとえば、TBSラジオ『アフター6ジャンクション2』とのコラボ上映イベントを開催した際に、元TBSアナウンサーの宇垣美里さんが本作を観て号泣したと語ってくださったのが印象的でした。彼女は、女子アナウンサーになりたいと思ってこの仕事に就いたものの、実際に求められる「女子アナ像」を自分自身も内面化していて、男性と二人きりで外を歩くことすら、無意識に避けていた自分に気づかされたと話していた。女子アナウンサーはアイドルではありませんが、それでも女性に求められる強いジェンダーロールは、いまも社会の中に色濃く残っているのだと思います。

(C)2025「恋愛裁判」製作委員会
主体性を奪った上で突きつけられる「自己責任論」
——「好きでやったんでしょ」「契約書にサインしたんだから自己責任でしょう」と、個人の選択に回収されてしまう空気は、日本社会のさまざまな場面に漂っているように感じます。
深田:それは本当に、考えなくてはいけない問題だと思っています。「恋愛したいならアイドルを辞めればいいじゃん」という言説と同じくらい、「恋愛しないと決めたのは本人でしょ」「恋愛禁止は自分で選んだんでしょ」という言い方もよく聞きます。
いわば「自己責任論」ですが、普段はアイドルから主体性を奪っているのに、そういう場面になると都合よく「本人の選択」を持ち出す。それはちょっとずるいなと思うんです。
そもそも「主体性」とは何なのか、というところから考え直す必要があると思っています。これはアイドルに限った話ではなく、主体性というのは実はとても曖昧なものです。20世紀にフロイトが無意識という概念を提示して以降、「自分のことは自分が一番分かっている」「自分の行動はすべて自分でコントロールできている」という考え方が、必ずしも成り立たないことが明らかになった。
私たちは常に、自分ではコントロールできない無意識や、環境、周囲からの影響を受けながら、考えたり、話したり、行動したりしています。だから、「自分の自由意志で選んだ」と本人が思っていたとしても、それがどこまで本当に自由な選択だったのかは、実は本人にも分からないことが多い。
だからこそ、他人の意思や行動に対して、過剰に誘導したりコントロールしたりしないよう気をつける必要があると思っています。でも現実には、「恋愛してもいいけどバレたらダメ」「発覚したら謝罪」といった状況がある。そうした圧力のなかで「私は恋愛をしない」と選ぶことが、どこまで主体的だと言えるのかは疑問です。
しかもアイドルの多くは未成年です。「それはあなたの選択でしょう」と言ってしまうこと自体が、市場やビジネスの論理に誘導してしまっていないか、考えなければいけないと思います。
最近は、恋愛禁止をはっきり言えなくなった代わりに、「アイドルのことを思って言っている」という形で語られることも多い。「本気でやるなら恋愛する暇はないよね」という、スポ根・部活的な文脈です。そうした言葉で恋愛しない方向へ誘導していくことに、やっぱりどこかずるさを感じます。

(C)2025「恋愛裁判」製作委員会
「なぜもっと批判しない?」という声も
——本作はカンヌ国際映画祭カンヌ・プレミア部門に正式出品されました。海外と日本で反応の違いはありましたか。
深田:国によってさまざまですが、欧米、とくにアメリカでは、アイドルという文化自体がかなり遠い存在です。だから、日本ほどの愛着がなく、より純粋に「社会問題」として受け取られている印象があります。BBCの報道なども含め、そうした文脈で理解されていると感じました。
一方で、韓国をはじめとするアジア圏では、アイドルは日常の一部です。問題も魅力も含めて生活の中にある存在なので、単純に社会問題として切り取れるものではない、という前提が共有されている。その違いが、映画を通して見えてくるのは面白かったですね。
欧米では好意的な反応が多かった一方で、「なぜもっと批判しないのか」「ぬるい」という声もありました。でも、それは意図的です。いわゆる「法廷劇」のようなカタルシスを残す形にはしなかったのも、制作の過程での自分なりの結論でした。
正直に言えば、欧米やヨーロッパの映画祭で評価されやすいのは、もっとアイドル業界を西洋的価値観の文脈ではっきりと批判的に描いた作品だと思います。それは間違いない。でも、この映画を作るにあたって一番考えたのは、「この作品を誰に届けたいのか」ということでした。
一番届けたかったのは「アイドル業界の中で生きている人たち」
——どういう意味でしょうか?
深田:やっぱり一番届けたかったのは、アイドル業界の中で生きている人たち。アイドル業界をモチーフに批評的に描き、それをもう一度業界にフィードバックする。作品を投げ返して、「ちょっと考えてみてもらう」きっかけになればいい。うまくいけば何か変化が生まれるかもしれない。そういう意味で、コンセプチュアルアートに近い作品だと思っています。
アイドル業界を単純化してデフォルメし、悪質な事務所に搾取される、か弱いアイドルたちを悲劇的に描けば、アイドル業界に批判的なヨーロッパのメディアや批評家には分かりやすく受け取ってもらえたと思います。でも、そうしてしまうと、描かれた「アイドル業界」は、実際にその中で生きている人たちにとってはリアルではなくなってしまう。結果的に、当事者にとっては他人事になってしまうんですよね。
だからこそ、アイドル業界の複雑さを、単純化せずにそのまま描くこと、等身大で描くことが重要だと思いました。そうすることで、アイドル業界にいる人たちにも、この作品を他人事ではなく、より自分事として受け止めてもらえるかもしれない。それが、この先にとってとても大切なことだったと感じています。
——そんな本作を東宝が制作・配給することには、どんな意義を感じていますか。
深田:東宝配給というのは、完全に成り行きではあるのですが、プロデューサーから聞いたときは正直、面白いなと思いました。この作品をコンセプチュアルアート的なものとして捉えるなら、アイドルが作品づくりの根幹に関わっている、その当事者性が重要になる。その作品を、芸能界・興行のど真ん中にいる東宝が制作・配給するというのは、言ってみれば「最後に龍の目に筆を入れる」ような感覚がありました。
——最後に、深田監督が今、特に関心を持っているテーマがあれば教えてください。
深田:最近気になっているのは「バックラッシュ」です。大学で教える立場でもあるので、表現の多様性やマイノリティの権利について話すなかで、「最近の過剰なポリコレは問題だ」という反発を、若い世代からも感じることがあります。
ただ、そこで立ち止まって考えたい。目の前にある結果だけを見ると不均衡に見えるところもあるかもしれないけれど、「なぜその権利が求められてきたのか」という背景や歴史を振り返ることが大切だと思っています。女性専用車両の議論なども、文脈を無視してしまうと、「女性だけ優遇されてずるい」という短絡的な対立に陥ってしまう。目の前の現象だけで判断せず、歴史や文脈を踏まえて考える姿勢が、いまこそ求められているんじゃないかと思います。

(C)2025「恋愛裁判」製作委員会
(聞き手:ウートピ編集部・堀池沙知子)



































