50 to 100 6冊目

親孝行ってなんだろう? 後回しにしがちな「親の個性」と自分の不安

親孝行ってなんだろう? 後回しにしがちな「親の個性」と自分の不安

人生の後半とどう向き合いたいか、50代から100歳以上の著者の本から考えてみる本連載「50 to 100」。

6冊目に紹介するのは、『97歳母と75歳娘 ひとり暮らしが一番幸せ』(中央公論新社)です。ノンフィクション作家の松原惇子さんは、母・かね子さんと同居と別居を経験し、自分たちらしい親子の距離感を見つけたそう。娘も母も後期高齢者。そんな二人の幸せとは——?

作家の南 綾子さんに読んでいただきました。

「孫の顔を見たい」と言われたことはないけれど…

わたしは42歳で独身(この連載で何回これ書くんだろ……)、実家には母が一人で暮らしている。きょうだいは弟が一人いたけれど、30代で亡くなってしまった。だから親の介護問題はわたしだけの肩にのしかかっている状態だ。

とはいえ、母はまだ70前で働いてもいるし、目下何か対策を打たなければならないわけでは決してない。それでも、母についてのアレコレは、心の片隅でずっと火のつかないおがくずみたいにぷすぷすくすぶり続けている。

この”アレコレ”は、単に将来の介護のことだけに限らない。結婚はともかく、結局孫を一人も持てなかったことは残念に思っているかもしれない。それに、生涯独身で実家暮らしだった弟が亡くなったことにより、予期しないかたちではじまった一人暮らしももしかしたらさみしいのだろうか。

しかしうちの母はわたしに過度な干渉もしないし、愚痴も言わない。「結婚はいつ?」も「孫の顔が見たい」も「将来の面倒を見てほしい」も一度も口にしたことがない。

だからこそ、わたしの心の中のおがくずもいつまでもぷすぷすいい続けている。

そんなわたしであるので、本書はこれまでこの企画で読んだ書籍の中でも、最も興味深い、というより、自分の身に迫るような題材だった。

「個性的なお母さん」に違和感

本書はずっと互いに自由なおひとり様暮らしを送っていた母娘が、のっぴきならない事情で43年ぶりに同居することになったものの、性格や生活習慣の不一致により破綻、その後紆余曲折を経て和解に至るまでの様子が描かれている。どちらか一方だけではなく、二人の視点から交互に語りだされるところがミソである。

夫婦でも親子それ以外でも、家庭内のトラブルは片方だけが悪いということはないのだということがよくわかる。よかれと思ってやったことが、相手にとっては単なるおせっかいだったり、自分では大したことはないと思っていた何かが、相手にとっては重大事案だったり。この松原母娘は二人して超個性派である分、その個性と個性が正面からぶつかったときのダメージも大きかったようだ。

とくに印象的なのは母親のかね子さんのキャラクターだ。ファッショナブルでパワフル。着るものはつま先から頭の先までこだわりにこだわりまくる。そして仕事をしているわけでもないのに、朝起きたときから夜眠るまで、とにかく忙しい。テレビを見ながら休憩するときもあるが、ソファにごろん、なんてことはなく、いつも背もたれのないスツールに座っているらしい。インターホンや電話がなったりしたときに、サッと立ち上がるためだそうだ。

読みながら、こんなにも個性的なお母さんなら、一緒に暮らすのはやっぱりちょっと大変かもしれない……と考えた。しかしそこで、ふと思う。

そもそも、個性的でないお母さん、なんてものは存在するのだろうか。

人から聞く”うちのお母さんトーク”は大抵面白い。友達のお母さんは旅好きで、砂漠で行方不明になったり旅先の現地人と友達になって日本に連れて帰ってきたりと、家族をいつもやきもきさせている。

別の友達のお母さんは未婚の娘を差し置いて、三度の結婚と三度の離婚を経て、現在は交際中の彼氏と婚約中だ。

うちの母もなかなかで、わたしが子供の頃は麻雀にハマっていてしょっちゅう朝帰りをし、近所の人たちに不倫を疑われていた。今も昔も人とつるまない性格で、なんでもはっきりものをいうのでママ友グループからはぶられることもしばしばあったようだが、いつも平然としていた。

うちの母は個性的、とわたしはずっとうっすら思っていたが、よく考えたら一口にお母さんといってもみんなそれぞれ一人の人間であって、それぞれに個性があって当たり前なのだ。

親孝行とはなんだろう

子供の個性を伸ばそう、とはよくいうが、親の個性のことはみんなあまり気に留めない。親は孫の顔を見たいはず、老後は子供に面倒をみてほしいと思っているはず、という考えに縛られてしまう。本書でも娘の淳子さんはこう語っている。

「親孝行しなくちゃ後悔する」「親に感謝しないと罰があたる」「親との同居は自然の流れ」という言葉に縛られて、自分を追い詰めている時期があった。
 
でも、母親のかね子さんは孝行も感謝も同居も求めていなかった。かね子さんが求めているのは自由と自立だ。それは同居を解消したあと、病気やけがに立て続けに見舞われたあとも変わらない。でも、大抵の人は年をとって体も思うように動かなくなった母親に「わたしは自由でいたいのよ」なんて言われたって、無視してしまうのはないだろうか。そうはいってもさみしいんじゃないか、一人にさせたら認知にも問題が出てくるかも、と常識にとらわれて、親の個性をつぶしてしまうのだ。 

親孝行とはなんだろう。わたしの母も、何より自由を重んじる人だ。母には母なりの幸せがあって、それは母一人の力でかなえてもらうべきものなのだろうか。それを尊重することが、親の個性を伸ばすことであり、親孝行への正しい一歩なのかも。この本を読み終わったあと、そんなふうに感じた。そして心の中のおがくずのぷすぷす音もちょっとだけ小さくなった。

(南 綾子)

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