元フジテレビのアナウンサーで現在は経済ジャーナリストとして活躍中の小出・フィッシャー・美奈さん(58)。
米国の投資運用会社で働いていた経験をもとに、投資業界で働く人々の実像に迫った『マネーの代理人たち〜ウォール街から見た日本株〜』(ディスカヴァー携書)を上梓しました。
小出さんは新卒でフジテレビに入社。ニュース番組のキャスターを務めたのちに記者職に転向し、外信デスクを経て37歳のときにフジテレビを退社。MBA留学後、投資業界に転職して米国でアナリストやファンドマネジャーとして活躍し、現在は経済ジャーナリストという“異色の”経歴の持ち主です。
第3回目は政治記者時代のお話を聞きます。
【第1回】37歳で金融に転身した元フジアナの仕事論
【第2回】アナウンサーにはなったけど…「私は偽物じゃないか?」という葛藤
「蓄積可能な仕事をしたい」アナウンサーから記者への転身
——前回はアナウンサー時代のお話を伺いました。7年間務めていたアナウンサーから報道の記者になりたいと思ったのはなぜですか?
小出・フィッシャー・美奈さん(以下、小出):何かこれが自分の専門だという分野を持ちたかったんです。アナウンサーの仕事は、いろいろな人に会えるという点ではとても楽しい仕事なんです。
私も(故)ダイアナ妃が来日する前の追っかけをやったり、伝説のテニスプレーヤー・ビョルン・ボルグ選手にインタビューしたり、京都の宮大工の棟梁からスパイ小説作家まで、いろいろな方にお会いしました。
それはとても楽しかったんですが、一方で、報道担当のアナウンサーの仕事は、今日は動物園にパンダの赤ちゃんを取材したら、明日は政治家のスキャンダルを追い、次の日は事件や災害現場に飛ぶ、っていう世界なんですね。追いかける対象が毎日違うんです。
30代が見えてきて自分の仕事を振り返ったときに「あれ? 自分の中で何が蓄積されているんだろう?」と思ったんです。
それもあって、上司に「もう少し自分の専門分野を絞って仕事がしたいです。私はこれをやっていますという、経験を蓄積できる形で仕事をやっていきたいです」とお願いしたら、すごく理解のある上司で、「わかった。じゃあ、僕が報道と掛け合ってあげよう」と言って下さって報道局に異動できることになったんです。
アナウンサーのままだったら「勘違い」していたかもしれない
——それで政治経済部の記者になったんですね。記者の仕事も大変そうですが……。
小出:はい。これもまた「ちょっと苦手」分野だったはずの政治経済関連のニュースを追いかける記者になりました。またニュース番組担当のディレクターの仕事もやりました。アナウンサーと記者との違いは……アナウンサーは“局の顔”なので、よくも悪くも大事にしてもらえるんです。
前回、お話したように原稿を読むという仕事も、それはそれで大変なんですけれど、ある意味、「神輿の上に乗っている」という部分もあるんですね。
つまり、誰かがすでに取材をしてくれていて、映像も用意されていて、インタビューも取れていて、スタジオセットもできている。そうやってお膳立てが整ったところに「はいどうぞ」と原稿を渡されて座る―そういう側面はあるわけです。
大勢のスタッフが一生懸命用意した素材を自分が壊さないようにまとめあげて、視聴者に伝えるという最後の仕上げなので、それはもちろん大事な仕事ではあるのですけれど。
でもそこから記者になりますと、もう「一兵卒」なんですね。まあ“特権剥奪”とでもいいますか……。最初のネタ探しから自分でやらなければいけない。
例えば「ニュース番組の10分間の特集企画を作る」となったら「さあ、何を取り上げたらいいんだろう」から始まる。当時は厳しい編集長がいて、自分が一生懸命に考えた企画を「これどうですか?」って持っていくと、「つまんねえよ」の一言でバッサリ。
しかも何月何日という放送枠だけは最初から決まっているので、期限があるんです。「つまんねえよ」って言われて企画が通らないと、今まで取材のための期間が3週間あったのが2週間になり、2週間が10日になり……と段々時間的に追い込まれていくんですよ。
ようやくなんとか企画を認めてもらって気が付いたら放送日が迫っていて、そこから大慌てでアポ取り、取材して、編集して10分間を埋めないといけない、さらに視聴率のとれるような濃い内容にも仕上げなければならない。放送日が近づくと、メイクする時間なんかもなくなり髪なんかバサバサでしたね。
——埋まらないと放送事故になってしまいますもんね。
小出:そうなんです。テレビ局の記者は、企画出し、アポ取り、取材、インタビューや映像の編集から番組の送り出しを全部やる。
当時は今のようにデジタル化もされてなかったので、ビデオ編集ではピンポイントでほしい場面には飛べませんから、テープをピュルルルって早回しをしたり反対回しをしながら編集してました。
画面を説明する「テロップ」も今は自動化されていると思いますが、当時は手書きで、オンエアが始まったら(番組をコントロールする)副調整室に行って「はい、次のテロップ」って声掛けて出すんですよ。テロップ出しって言うんですけど。
——それも記者がやるんですか?
小出:そうなんです。「はい、次のテロップ」「はい、取ってください」、「はい次」というのまでやるんですよ。全部手作り作業です。
いろいろしんどいこともありましたが、そのときの経験が、その後に続く社会人生活の基礎になりましたね。まず自分が手や足を動かして何でもやるということをここで覚えておかなかったら、ちょっと「勘違い」してしまっていたかもしれないと思います。
——「勘違い」というのは?
小出:組織の力を自分の力だと勘違いしてしまっていたかもしれないな、と。なので、記者時代はなにかと大変でしたが、今思うと「やらせていただいてありがとうございました」という感謝の気持ちですね。
——「下積み」や「苦労すること」って今の時代は嫌厭される傾向にありますが、自分の手や足を動かしたからこそわかることってありますよね。
29歳からスタートした“夜討ち朝駆け”の毎日
——今は「働き方改革」と言われていますが、朝も夜もないような生活ですよね?
小出:アナウンサーで入ったときから朝の番組を担当していたので、すでに入社一年目から午前3時に会社からの迎えの車が来て4時から編集会議、6時から番組が始まって正午には帰宅するという変な生活でした。夜は8時頃に寝ないと体が持たないので、平日は飲みにも行けません。友だちがいなくなりましたね。(笑)
でもやっぱり、一番キツかったのは、政治部の記者時代で、「夜討ち朝駆け」と言われる夜回り・朝回りの取材をしていた時です。それは昭和の時代も今の時代もあまり変わってみたいですけれど……。
ベテランの記者になれば議員さんの方からお声がかかって、料亭かどこかの個室に呼ばれて相談を受けるようなケースもありますが、ペーペーの新人記者だと情報も人脈も持っていないからもちろんそんなふうにはいかない。そうすると文字通り「夜討ち朝駆け」で、朝は7時くらいから宿舎の玄関先で待機して議員が出勤するところを狙い、夜は10時とか11時くらいまで粘って議員が帰宅する帰り際を捕まえて、一言二言質問をぶつけるんです。
それを泊まり番の政治部デスクに「こういう話が取れました」って報告して「じゃあ、よろしくお願いします」と言って帰ろうとすると「お前、もう一件行けるだろう?」って。
だから国会記者会館にボロいソファがあったんですが、昼間はそこでよく仮眠していましたね。スカートスーツの時は、膝に新聞紙かけて寝てたりもしました。まわりのおじさん記者たちが呆れてましたが。
※次回は5月25日(金)公開です。
(聞き手:ウートピ編集部・堀池沙知子、写真:宇高尚弘/HEADS)