俳優が台本を読みながら演じる「リーディング公演」とは? 井上芳雄が舞台化に挑む『親愛なるレニー』

俳優が台本を読みながら演じる「リーディング公演」とは? 井上芳雄が舞台化に挑む『親愛なるレニー』

2028年の本公演に向けた「トライアウト」

舞台作品は通常、完成した姿で観客の前に現れる。だが、その完成に至る過程をあえて開き、観客の反応を受け取りながら作品を育てていく方法がある。それが「トライアウト」だ。

今回上映された『2026 親愛なるレニー リーディング・トライアウト公演』(2026年9月20、21、22日)は、2028年に予定される本公演に向けた試験的な舞台である。採用されたのは、俳優が台本の朗読やせりふを中心に物語を表現する「リーディング」という形式だ。一般的な演劇と比べて舞台装置や衣装などを簡素にすることが多く、俳優の声と言葉によって観客の想像力を引き出す。今回の公演では、そこに音楽や歌も加わった。

原作は、吉原真里著『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』(アルテスパブリッシング)。20世紀を代表する指揮者・作曲家レナード・バーンスタインと、彼と長年にわたり交流した二人の日本人、カズコとクニの物語を、数百通に及ぶ手紙をはじめとする資料から描き出したノンフィクションだ。

バーンスタインは、ミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』の作曲家としても知られる世界的な音楽家である。一方、カズコは日本における初期からの熱心なファンであり、クニはバーンスタインと恋愛関係になり、その活動を支えた人物だった。原作は、二人がバーンスタインに宛てた手紙などを手がかりに、それぞれの人生や彼との関係をたどりながら、戦後の日米社会や音楽文化の変遷を浮かび上がらせている。

舞台化を望んだのは俳優の井上芳雄だった。新聞の書評をきっかけに原作と出会い、自ら企画を立ち上げたという。出演は井上のほか、糸川耀士郎、大倉杏菜、土居裕子。当日のトークでは、井上が別作品の稽古中に土居を誘ったというエピソードも明かされた。一冊の本に魅せられた俳優の思いから企画が動き出し、人が集まり、舞台へと形を変えていく。その成り立ちにもまた、トライアウトという試みの原点を見るようだった。

『2026 親愛なるレニー リーディング・トライアウト公演』

(C)西村淳

原作の一行が、舞台で新たな命を得る

原作が扱う時間と情報は膨大である。バーンスタインの音楽家としての歩みだけでなく、戦後の日米を背景に、二人の日本人との長い交流が多くの資料を通して描かれる。それを限られた上演時間のなかに移す作業は容易ではない。しかし高橋知伽江による脚本は、原作の核を損なうことなく、三人の関係を軸に物語を巧みに編み直している。

上演は朗読を主体とするリーディング形式だが、単なる原作の読み聞かせにはとどまらない。俳優たちはいくつもの人物を行き来し、その間に音楽と歌が差し込まれる。なかでも、この舞台の可能性を最も鮮明に示したのが、井上が歌う《Big Stuff》だった。

《Big Stuff》は、バーンスタイン自身が作曲した楽曲で、彼自身が歌った録音も残されている。しかし、原作ではわずか一行ほど、さらりと触れられているにすぎない。舞台はその一行を拾い上げ、一つの重要な場面へと大きく昇華させた。

そもそも『親愛なるレニー』という物語に、レニー本人は自らを語る者として登場しない。残された手紙、彼を知る人々の言葉、彼らとの関係の軌跡を通して、不在の人物の輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。その構造は舞台でも生かされている。

だからこそ、《Big Stuff》が響く瞬間は鮮烈だった。

井上はそこで、バーンスタインを写実的に「演じる」のではない。レニーが作り、レニー自身が歌った音楽を、自らの声で歌う。それまで他者の言葉によって形づくられてきた人物の内側から、ふいに本人の肉声にも似たものが立ち上がる。姿を見せない人物を、その人が残した音楽によって存在させる。その瞬間、舞台に漂っていたレニーの像は確かな質量を得た。

原作の記述をただ台詞へ置き換えるのではなく、そこに潜む演劇的な可能性を見つけ出し、原作にはなかった強度を与える。それこそが舞台化の醍醐味だろう。《Big Stuff》の場面を見て、2028年に予定される本公演への期待が大きく膨らんだ。原作のどの一行が、次には俳優の身体や音楽を得て、新たな場面へと生まれ変わるのだろう。

『2026 親愛なるレニー リーディング・トライアウト公演』

リーディングならではの演出と、本公演への課題

リーディングならではの演出にも工夫があった。今回は、少人数の俳優が多くの人物を演じるため、小物を用いて役の転換を示していた。

とりわけ印象的なのが、原作者・吉原真里を示す太い縁の大ぶりな眼鏡である。本人を知る者ならすぐに気づく、いわば彼女のアイコンだ。それを身につけるだけで原作者の視点へと切り替わり、物語を導くナレーターとしての存在も明確になる。簡潔でありながら効果的だった。

一方、複数の俳優がさまざまな役を演じ、ときには同じ人物を別の俳優が担うため、切り替わりの一瞬、誰の言葉なのかを捉えにくい場面もあった。トライアウトである以上、こうした点もまた本公演へ向けて検討されていくだろう。

音楽についてもう一つ望むなら、日本語で歌われる場面も聴いてみたい。バーンスタイン作品への日本語詞には権利上の制約もあるだろう。しかし日本語で進むドラマの言葉が、そのまま歌へと流れ込む瞬間が生まれれば、音楽と物語の結びつきはさらに深まるのではないか。

今回、「トライアウト」が単なる名称ではなかったことも興味深い。公演の前後には出演者によるトークが設けられ、制作過程について率直に語るとともに、観客にも質問が投げかけられた。

トライアウトは、観客の反応などを参考にしながら作品を練り上げていくための機会でもある。完成品を提示して評価を待つのではなく、作り手と観客が、まだ変わり得る作品を前に言葉を交わす。観客もまた、作品が形を得ていく時間に立ち会っているのである。

『2026 親愛なるレニー リーディング・トライアウト公演』

(C)西村淳

本公演完成後も、このリーディング版を残してほしい

そして本公演への期待が高まったからこそ、あえて願いたいことがある。このリーディング版を、本公演完成後も残してほしい。

今回の公演は、2028年に予定される本公演に向けた試みとして位置づけられている。しかし、朗読を中心に据えた現在の形式にも、本公演とは異なる魅力がある。

大規模な舞台は、舞台装置や技術、出演者が増えるほど、上演できる劇場や地域が限られる。しかし言葉と俳優と音楽を核とした今回の形式なら、より小さな劇場や地方のホールにも作品を届けられる。これは単なる「簡易版」ではない。《Big Stuff》が証明したように、余白の多いリーディングだからこそ、言葉と音楽から人物を想像する力が際立つ。

2028年、『親愛なるレニー』はおそらく、より大きな舞台へと歩み出す。その完成形を待つ楽しみと同時に、今回の公演が見せた、もう一つの姿も失われないでほしいと思う。

不在の人を、残された言葉から想像すること。
その人の音楽に耳を澄ませること。
そして、まだ完成していない舞台の未来を、観客もともに想像すること。

『親愛なるレニー』のトライアウトは、未完成であることを弱さではなく、作品の可能性として観客に開いた舞台だった。

(渋谷ゆう子)

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