映画『ジョンベネ殺害事件の謎』(2017)で知られるドキュメンタリー映画作家、キティ・グリーンが初のフィクション作品に取り組んだ『アシスタント』が公開中です。劇中にBGMが一切使用されていない本作について、音楽プロデューサーの渋谷ゆう子さんにつづっていただきました。
あるアシスタントの「72時間」ならぬ「24時間」
2017年に巻き起こった「#MeToo運動」をきっかけとして、『ジョンベネ殺害事件の謎』(2017)で知られるドキュメンタリー映画作家、キティ・グリーンが初のフィクション作品に取り組んだ『アシスタント』。本作は職場におけるハラスメントの問題をフィクションの形で掘り下げた意欲作である。
『アシスタント』は、名門ノースウェスタン大学を卒業し、憧れの映画制作会社に入社してまだ2カ月という主人公の24時間をドキュメンタリーのように追う物語である。月曜の朝、主人公ジェーン・ドゥ(ジュリア・ガーナ)は、まだ外が暗いうちから誰よりも早く出勤し仕事を始める。食べ散らかされたゴミを掃除し、前夜にボスの部屋を訪れた女性のピアスを回収する。備品の飲み物を補充し、大量の資料を印刷して会議資料を作る。スケジュール変更のためホテルと航空券を手配し直し、ドライバーをなんとか確定していく。ボスの妻から夫への不満をぶつけられる電話にも対応する。しかし同僚たちからの態度は冷たい。投げかけられるのは、やって当然、できないほうが悪いという冷ややかな視線と、ときどきの直接的な無関心だけだ。
劇中には一貫してBGMはない。音楽を入れ込まないのは、現実ではそこに音楽がないから。代わりにパソコンのキーボードの音や電話の着信音、コピー機の音などが強調して表現される。こうした無機質な音は、神経が過敏になっているときに特に精神にこたえる。やり場のない静かな怒りが内にたまるたび、環境音を誇張する使い方が増えてくる。
“特別な誰か”ではない、あなたでありわたしの物語
本作を語るには、Jane Doe(ジェーン ドゥ)という名前を主人公に与えた監督の意図を考えなければならないだろう。Jane Doeを日本語で表すなら、記入例として多用される「山田 花子」がそれに近いだろうか。仮称であることによって、この物語がある特定の人に起こった珍しい物語ではなく、あらゆる業界で働く人の集合体として成り立つことを強調する。
その匿名性と一般性は徹底されており、ジェーンの24時間を丁寧に追う間、彼女は一度も誰からも名前を呼ばれない。あるときは「Hey」だけであり、人事課担当者からは「最近入った子」、同じチームの先輩男性からは紙屑(くず)を放り投げて合図が送られる。ボスからのメールは「You」でしかなく、親との電話の間でさえ「Sweetie」とだけ。主人公が徹底して名前を呼ばれないことで、一人のキャラクターの個性を形作らせないこと、“特別な誰か”にしないことに成功している。ここにいるのは、あなたであり、わたしであると。
ドキュメンタリー映画『ジョンベネ殺害事件の謎』で知られるグリーン監督は、リサーチの中で、職場におけるハラスメントは性加害だけでなく、心理的、あるいは言葉によるハラスメントが多いこと、そしてそれは最も弱い立場の従業員、つまり下級職の若い女性に向けられることが多いことに気づく。
「この映画を練り始めたときは、女性たちから直接聞いた具体的な話をもとにしたノンフィクションの脚本作品を考えていた」と振り返るグリーン監督。それを軌道修正したのは、「私が聞いた何千もの話が混ざり合い、ひとりの女性の目を通して見たものに進化した。目的は変わらないまま、このプロジェクトは独自の発展を遂げ、ドキュメンタリー作品のようなリサーチに基づいたフィクション映画になった」からだ。
ジェーンを目で追う中で見えてくる「かつての自分」
実直に業務に向かう主人公ジェーンの姿は、少々不器用すぎないかと思うくらい痛々しい。目の前のことに精いっぱい立ち向かおうとし、壁にぶつかる姿に多くの人が「かつての自分」を見いだすのではないだろうか? 社会との、周囲との“仕事”としての折り合いと自分自身のパーソナリティのはざまで悩むこともある。そんなときにだれか一人でもメンターがいてくれたら、声を掛けてくれる先輩がいてくれさえすれば、少し気は持ち直すし、まっとうな成長もできる。解決策も考えられるだろう。
ジェーンも人事窓口に行って、置かれた窮状の説明はする。しかしその試みと期待はあっけなく裏切られる。形ばかりの相談窓口はあっても、その担当者すら組織の一員だ。解決するどころか、握りつぶされるということすらある。こうしたシーンも怖いほどの現実である。腐った組織で息が苦しくなっても腐敗臭を吸い続けるか、あるいはそこを去るかしか方法はない。力のない新人にすぎない自分にはどうしようもないことを突きつけられるのだ。
新鮮な空気を入れる仕組みすらない組織では、最もその下部にいるものが常に腐敗した空気を、さらに上からの圧縮で濃度高く浴びせられる。ハラスメントを生むのが一人の組織員であったとしても、組織そのものがその土壌を作っているのだと、ジェーンの目を通して訴えている。24時間の流れをそのまま切り出した映画の全てで、この重く苦しい空気が充満し、観客も共に息がしづらくなるような作品だ。
ハラスメントの権化の不存在
最後に、本作では主人公のボスである“大物の映画プロデューサー”が、一度も姿を見せていないことにも言及しないわけにはいかないだろう。妻に浮気を疑われながらも、若くて魅力的な女性を秘書として雇い、高級ホテルに住まわせるボス。周囲もそれに気がつきながらも日常の当たり前のようにわざわざ波風を立てない。メールや電話でアシスタントに指示を出し罵倒もするこのボスは、ハリウッド映画界で起こった“あの事件”の“あのプロデューサー”である。ハラスメントの権化をその“不存在”によって表現していることを忘れてはならない。
<わざわざ映画で現実を確認した>多くの女性たちはこの映画を見てこう思うに違いない。それほどこの主人公に起こることは一般的なものであり、働く女性のだれもが大なり小なり経験することである。いや、現実はもっとシビアであることさえある。『アシスタント』は私であり、あなたであり、組織の所属する多くの人にとっての現実そのものだ。
ジェーンの顔は終始ニコリともせず、スクリーンの真ん中で正面から大写しとなる。ジェーンは今ここにいる。この現実を、窮地にいるこの女性の顔を、直視する勇気があなたにあるだろうか。見るものにそう強く問い続ける映画である。
(音楽プロデューサー・渋谷ゆう子)
■映画情報
『アシスタント』
監督・脚本・製作・共同編集:キティ・グリーン
出演:ジュリア・ガーナー、マシュー・マクファディン、マッケンジー・リー
製作:スコット・マコーリー、ジェームズ・シェイマス、P・ジェニファー・デイナ、ロス・ジェイコブソン
サウンドデザイン:レスリー・シャッツ
音楽:タマール=カリ
キャスティング:アヴィ・カウフマン
原題:The Assistant (C)2019 Luminary Productions, LLC. All Rights Reserved.
配給・宣伝:サンリスフィルム