弦楽四重奏が示唆する夫婦関係の破綻…クラシック音楽からひもとく『ドライブ・マイ・カー』

弦楽四重奏が示唆する夫婦関係の破綻…クラシック音楽からひもとく『ドライブ・マイ・カー』
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GW中は読書や映画鑑賞など、どっぷりと作品の世界に浸かる予定という人も多いのでは? 国内外で高く評価された映画『ドライブ・マイ・カー』について、音楽プロデューサーの渋谷ゆう子さんにつづっていただきました。

劇中で使われた音楽に注目! 改めて見返したい『ドライブ・マイ・カー』

村上春樹の短編小説をもとにした、濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』は、2021年のカンヌ国際映画祭で日本映画では史上初となる脚本賞を受賞。加えて3つの独立賞も受賞し、計4冠に輝いたことを皮切りに、第94回アカデミー賞では作品賞・脚色賞を含む計4部門にノミネートされ国際長編映画賞を受賞と、世界中の数多くのアワードを制した。そして先日2023年3月にアジアフィルムアワードで最優秀作品賞を受賞してこの映画の賞レースを有終の美で飾った。

脚本は村上春樹短編集「女のいない男たち」の中から、「ドライブ・マイ・カー」を軸にし、「シェエラザード」と「木野」の二つの話を取り込んで構成された。さらにはチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を劇中劇とし、そのセリフを映画のストーリーに潜り込ませ、サイドストーリーが本編に効果的に絡まっていく練られた脚本の評価は高い。主人公の車、赤いサーブ900と瀬戸内の海の青のコントラストや、雪景色など映像の美しさも突出している。劇中で重要な要素となる「ワーニャ伯父さん」は数カ国語と手話で演じられ、コミュニケーションの新しい形として示される。179分という大作の中に語るべき視点は多いが、今回はその中の音楽、特にクラシック音楽に視点を当ててみたい。

映画『ドライブ・マイ・カー』は、俳優で舞台演出家の家福悠介(西島秀俊)と、専属運転手として雇われた渡利みさき(三浦透子)が、車の中という限られた空間を共有しながら、互いの過去の痛手や後悔を少しずつ明らかにしていき、進むべく方向を見いだしていくというストーリーだ。

繰り返しではなく展開…モーツァルト「ロンド ニ長調」が意味するもの

家福の“痛手”とは妻で脚本家の音(霧島れいか)のことである。自作ドラマに出演する若手俳優高槻(岡田将生)と浮気をしていることを知りながら、家福はそれを心に秘めたままにして変わらず生活をしていた。夫婦の間には演劇という共通項もあり、また幼いわが子を亡くしたという悲しみも共有し、夫婦仲は良い。お互いが愛し合っていることは、家福の事故の際にも丁寧に表現されている。しかしある日、家福は乗るはずだった航空便が欠航して家に帰ることになった。玄関ドアを開けると、リビングで妻の音が高槻とセックスをしている場面を目撃してしまう。二人に気づかれないよう、家福はそっと玄関ドアを閉じて出ていく。

このシーンに使われているのが、モーツァルト作曲「ロンド ニ長調 K485」である。リビングでこの軽快なピアノ曲をレコードで流しながら、音は浮気をしている。ロンドとは、輪になって歌いながらぐるぐる回るダンスである。音楽では主題(テーマ)が何度も繰り返されて使われる曲のスタイルを示す。しかし、このシーンで使われているモーツァルトのロンド ニ長調は、実は他のロンドとは少し違っている。同じテーマを繰り返すのではなく、転調を重ね、さらには別のメロディに展開される。ロンドと名付けられているが、本質はかなり違っている楽曲である。繰り返しではなく展開。この性質を持つ曲をこのシーンに選んだ意味は大きい。

主人公の家福はこれまで、妻の浮気をうすうす感じていながらもそれを確認したりはせず、夫婦として同じような日常を繰り返してきた。それがこの日を境に決定的に変化していくというメッセージを、この一曲で雄弁に語らせているのだ。しかし一方で、家福自身はこの展開の分岐点に気づかないふりをしていく。なかったこと、見なかったことにするのだ。その心理はある音で表現されている。

ベートーヴェン・弦楽四重奏が示唆する夫婦関係の破綻

家福が妻の浮気現場を目撃する前、自宅マンションの立体駐車場へ車を入れるシーンがある。ここで駐車場のドアの開くブザーが大音量で流される。この音量は不自然なほど大きく、耳につく。強調されたこの音は、浮気現場を見て立ち去る家福が同じく車を出す際にも繰り返される。それらの不快で大きなブザーはまるで劇場の開演の合図であるかのようだ。家福が見た妻の浮気は舞台の一幕であり、現実として切り離していくという意思表示に見える。そしてまた車を出して始まる第二幕は、妻の浮気を知らないふりを続けていく役の始まりである。

駐車場から車を出し入れするブザーの鳴るシーンは他にもう一度だけある。それは妻が亡くなっていたことを家福が見つける場面の前だ。この時のブザーは小さくそして長い。静かな終幕の始まりを物語っている。モーツァルトを挟んだ二回の不自然なほどに大きなブザー音と、死のはじまりであるごく小さく長いブザー。この音響効果はこの映画が劇中劇を含み、さらに日常でさえも演じる場であるという二重構造を強調した。

本作にはもう一曲、クラシック音楽が挿入されている。家福と音が朝のリビングでコーヒーを飲んでいるシーンだ。ここでベートーヴェン作曲「弦楽四重奏 第3番 ニ長調」が、レコードでかけられている。このレコードが音飛びを起こして、同じ箇所が何度も繰り返されるシーンとなる。音はレコード針を上げて曲を止める。そして出かける家福に向かって、「今夜少し話がある」と次の展開を告げるのだ。妻によって繰り返しを止められ、次の展開へ導こうとする場面を、ここではクラシック音楽をレコードの破損によって繰り返させるという手法にし、登場人物の心理を表した。

弦楽四重奏とは、ヴァイオリン2本、ヴィオラ、チェロの4人で演奏される楽曲である。文豪ゲーテは弦楽四重奏曲について「理性的な人間の交わす対話」と評している。この夫婦の「理性的な対話」がすでに破綻していること、日常はもう繰り返せないことを、このシーンでもクラシック音楽を使って完璧に表されている。

濱口監督作品は脚本の素晴らしさと卓越した映像を評価されることが多い。しかしどの作品も実は「音」に関して常に細心の注意を払い構成している。

「沈黙が聞こえる。補聴器をつけたときみたいな強調された静けさがその部屋には響いている」

これは村上春樹のテキストではない。本作冒頭のシーンで音の語る次のセリフとして書かれたオリジナルの文章である。音に対して敏感で、かつ詩的な表現で繊細に彩る。雪が降り積もった景色では全くの無音シーンを作り上げる大胆さも持ち合わせる。そんなすべてに美意識が備わった「ドライブ・マイ・カー」を今もう一度音楽や音に注意を払って見返してほしい。そして劇中に使われたクラシック音楽もぜひ全部通して聴いていただければと願う。

「ドライブ・マイ・カー インターナショナル版」Blu-ray&DVDは好評発売中。Amazonプライム、Netflix、Huluなどでも配信中。

■作品情報

「ドライブ・マイ・カー インターナショナル版」Blu-ray&DVD
(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
発売元:カルチュア・パブリッシャーズ
セル販売元:TCエンタテインメント

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弦楽四重奏が示唆する夫婦関係の破綻…クラシック音楽からひもとく『ドライブ・マイ・カー』

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