50 to 100 8冊目

ならば「結婚」は、何のため誰のために存在するのか『ふがいないきょうだいに困ってる』を読んで

ならば「結婚」は、何のため誰のために存在するのか『ふがいないきょうだいに困ってる』を読んで

人生の後半とどう向き合いたいか「50 to 100」として、50代から100歳以上の著者の本から考えてみる本連載。

8冊目に紹介するのは、『ふがいないきょうだいに困ってる 「距離を置きたい」「縁を切りたい」家族の悩み』(光文社)です。

もしかしたら自分は“家族”という牢獄を抜け出せたラッキーな人なのでは——? 本連載を通じて「家族」や「婚姻制度」に対するわからなさが増したと話す作家の南 綾子さん。その理由とは?

“ふがいない”きょうだいが引き起こす問題の数々

8050あるいは7040問題といった言葉が世に出て久しい。引きこもりが長期化した無職の子供を高齢の親が支えている状態の家庭が増加し、社会問題化していることを指す言葉だ。同居する親と子の関係ばかりに目がいきがちだか、こういった家庭にも”きょうだい”がいて、何らかの迷惑、被害をうけている。

本書にはそんなさまざまなきょうだいが登場し、実際にうけている迷惑、被害が赤裸々に語りだされていく。本書では、迷惑、被害をうみだしている人々のことを、”ふがいない”きょうだいと呼んでいる。彼らが引き起こす問題は、もちろん引きこもりだけに限られない。 

最も印象的だったのは2章「金の無心をするきょうだい」に登場する『ワル・馬鹿・クズの粒ぞろい』最凶三兄弟だ。被害者は末の妹さん。ワル・馬鹿・クズという身もふたもない形容はちっとも大げさでないどころか表現としてまったく物足りないほどだ。

この一家は資産家なので、最凶三兄弟が使い込んだり踏み倒したり横領したりする金額も基本数千万単位なのだが、そんな甚大な被害を幼少期から三兄弟を差し置いて後継者指名されていた妹さんが、八面六臂の活躍で解決していく。その様は、”舐めていた相手が実は殺人マシーンだった”系の映画を見ているような爽快感すらあった。ぜひ一読をお勧めしたい。

「借金返済」のあてがサマージャンボ。それって返す気あるの?

ほかにもアラサーで突然反抗期を迎えて大暴れする弟や、妹に性的な暴行、いたずらを働く兄も出てくる。そして実は著者の吉田潮さんも、ふがいないきょうだいに悩む当事者の一人だ。

吉田さんのお姉さんはいわゆるパラサイト系。仕事をする意思も意欲もあまりなく、住まいの確保も生活のための資金も自分で用意できず、家族に頼りきりで生きている。吉田さんは実際にお姉さんに230万円を貸したまま、返してもらえていない。とくに最後に紹介されている二人の会話が印象に残った。

潮 (借金について)でも忘れてるし、返す気もないんだよね?

姉 確かに何回か救ってもらった記憶はあるんだけど、それがいくらだったのかは覚えてない。それはいいとして、サマージャンボとか当てて数百万お返しします。

 
230万円もの借金を平然と「覚えていない」と言い放つこともさることながら、返済方法が「サマージャンボとか当てて」ときた。信じられない。「金を返す気は一切ありません」と言っているも同然だ。

この姉には、罪悪感とかそういったものはないんだろうかと考えて、はっとした。

ない。ないどころか、むしろ自分が被害者だと思っているのかもしれない。

収入が低いのも生活力がないのも姉なりに理由があるのだ。できないのだからしょうがない。しっかり者で体も健康で仕事も順調な妹が本来なら援助してくれて当然なのに、なぜいつも怒ってばかりなのか。そもそも家族なんだから、お金のやりとりに貸し借りなんて概念が持ち込まれるのはおかしい(つまりあなたのお金はわたしのお金)。

吉田さんの姉が本当にこのように考えているかはわからない。しかし、家族に金を借りても平然としている人の中には、このように考えている人もいるかもしれない。

このケースだけでなく、本書に登場するすべてのふがいないきょうだいたちは、自分が悪者で、被害者とされているほうのきょうだいを正義の味方だなんて思ってはいないだろう。みんな本人なりの理由や正当性があって、借金を踏み倒したり暴行を働いたりしているのだ。

わたしはラッキーな自由人なのだろうか

簡単に言い切ってしまえば、価値観の違い。しかし、他人ならその一言で片づけてしまえるが、きょうだい間ではそうもいかない。家族の問題は家族で解決するべきだと思い込んでしまう。本書ではその解決策として、”役割”の放棄が提唱されている。

きょうだいだからという理由ですべてを抱え込まず、専門家に相談するなり対処を依頼するなりして、社会に解決してもらおうと考えるようにする。これが役割の放棄。放棄というところまではいかなくとも、五十代、あるいは六十代、もしくはもっと先の人生を楽しく幸せに生きるために、母、あるいは妻、もしくは娘として背負ってきた荷物を下ろす、という考えは、この『50 to 100』で取り扱ってきた書籍に共通するテーマであるように思える。

わたしは最近、『50 to 100』でシニア世代の人々の書く本を読み続けて、ますますわからなくなっている。自分の幸せのために家族としての役割を手放していくべきなのなら、そもそも一体家族とは、何のために存在するのだろうと。

本書を読んで気づかされたのは、傍からは円満に見えるような家族でも、もしかしたら家族のうちの誰か一人の苦労や被害の上に成り立っているのかしれないということだ。円満の陰で誰かが泣いている。みんなそれをわかっていながら見て見ぬふりをしている——円満の維持のために。

それが日本の家族、家庭の典型的な姿なのか? わたしは自分のことを”結婚も出産もできなかった女”だと、少々の自己憐憫をこめて思っていた。そうではなくて、家族という牢獄から脱出できたラッキーな自由人なのだろうか? 最近、この連載をやるようになって、冗談じゃなく真剣にそう思えてきた。

じゃあ結婚は一体、何のため、誰のために存在する制度なのだろう? 

(南 綾子)

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ならば「結婚」は、何のため誰のために存在するのか『ふがいないきょうだいに困ってる』を読んで

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