コメディやホラー、アクションなど映画には様々なジャンルがありますが、鬱屈とした気分の時に見たい映画も。コラムニストのDJあおいさんに「鬱映画」をテーマに綴っていただきます。
鬱映画の“鬱くしさ”
後味が悪く、救いのない、バッドエンドの映画を「鬱映画」と呼びます。
しかし、ただ絶望を描いただけの映画に惹きつけられる人はいません。人が惹きつけられるのはジャンルを問わず「美」であり、絶望の中でしか見ることのできない「美」を携えた鬱映画のことを私は「鬱くしい映画」と呼んでいます。
夏にはサマーソングを聴くように、クリスマスにはクリスマスソングを聴くように、鬱屈とした気分になってしまったときにはこの鬱映画を観賞することをお勧めします。
きっとその「鬱くしさ」に胸を打たれることでしょう。
今年は6月21日が夏至だったということでフェスティバルサスペンスとしてすっかり有名なスウェーデン映画『ミッドサマー』をご紹介します。
※ネタバレを含みます。
「ホラー映画ではなく恋愛映画」
2020年2月21日日本公開、監督は『へレディタリー 継承』(2018年)でおなじみのアリ・アスター監督。ちょうど新型コロナのパンデミックによる自粛祭りの真っただ中で公開されたんですよね。
興行もままならない環境であるにも関わらずSNSを中心に口コミが口コミを呼び「トラウマ必至」と囁(ささや)かれたのは記憶に新しいところですが、アリ・アスター監督の映画って圧倒的に人を選ぶんですよ。
ハマる人はトラウマ級の恐怖を味わうことができるのですが、そうでない人はただただ退屈という二極化が激しい作りになっています。
たぶん最初から大衆向けに作っていないんですよね。
「わからない奴はわからなくていい」という万人ウケを拒絶した作品であり、それだけ“見方”が難しい映画でもあります。
確かに目を覆いたくなるようなグロいシーンもあるのですが、視覚的な怖さで言えば他にもグチョグチョナポリタンな映画もたくさんありますし、グロ嫌いな私が見ることができた程度のグロさなので、そこら辺はこの映画の怖さとは別物なのかなといった印象。
例の“聖なる儀式“改め“性なる儀式”のシーンも怖いというよりもシュール。狂気とお笑いの境界線上にあるようなシーンで、「ここは笑っていいところなのかな……」と躊躇(ちゅうちょ)したほど、とにかく“見方”が難しい映画なのですが、そこら辺はアリ・アスター監督がインタビューでヒントを出してくれていますね。
「これはホラー映画じゃないですよ、恋愛映画ですよ」と明言しているのですが、まさにそのとおり。
ホラー映画として見ると退屈なんです。サイコサスペンスとして見ても物足りない。でも、恋愛映画として見ると珠玉の鬱映画になるような作りになっているのです。
主人公であるダニー(フローレンス・ピュー)にどれだけシンクロできるのかが『ミッドサマー』を鑑賞する際の肝となりますので、そこら辺の心の準備を整えてから再生ボタンをクリックすることをお勧めします。
映画『ミッドサマー』とは?
<あらすじ>
物語は主人公ダニーの妹が両親を道連れに心中を図ってしまったところから始まります。その傷心も癒えぬまま彼氏のクリスチャン(ジャック・レイナー)と愉快な仲間たち(?)とともに夏至祭を観光するため北欧スウェーデンの山奥にあるホルガ村を訪れるわけですが、ホルガ村の夏至祭にはとんでもない秘密が隠されていたのでした……。
<主要人物>
・ダニー / 本作品の主人公、妹と両親を亡くしたばかりで傷心中、彼氏のクリスチャンに不信感を抱きながらも愛そうと努力をしている、メンタル弱め
・クリスチャン / ダニーの彼氏、隠しきれないクズ味、ダニーと別れたいと思っているが完全にタイミングを見失った模様
・ジョシュ / クリスチャンの友人、勉強熱心で人類学に長けている
・マーク / クリスチャンの友人、女とヤることしか頭にない、そのわりにそこはかとなく漂う女性に慣れていない感じ、アホのマーク
・ペレ / クリスチャンの友人でありホルガ村の一員、今回の旅行の首謀者、ダニーに思いを寄せているようだがその真意は謎
<夏至祭(ミッドサマー)について>
本作の舞台となるホルガ村では白夜の中で夏至祭が行われるわけですが、夏至に白夜となる地域は冬になると極端に日照時間が短くなる地域でもあります。
ゆえに太陽が沈まない夏至は彼らにとって特別な期間になりますので祭りが行われるというわけです。ちなみに土着信仰の下で行われるお祭りとは、五穀豊穣や無病息災を祈るというメインの目的がある側面で、子づくりや結婚相手を探すというイベントでもあります。
本作ではメイポールダンスがそれに当たるわけですが、古来日本の盆踊りなんかも同じ目的で行われていたそうです。アホのマークはこれが目当てだったということですね。
以下、いくつかのポイントに絞って考察していきます。
「家族」に反応するダニー
ホルガ村に入る前に皆でいけないお薬に興じるシーンがありますが、ダニーだけバッドトリップしてしまいます。これはペレ(ウィルヘルム・ブロングレン)の「君たちは家族と同じだ」という言葉の「家族」というワードに反応してしまったから。家族を失った傷心が癒えないダニーにとって「家族」というワードは禁忌だったのでしょう。ちなみにペレは故意に言った可能性があります。
それほどペレという男は狡猾な男だと思ってください。
ダニーとクリスチャンのすれ違い
ロンドンからホルガ村に観光にやって来たコニー(エローラ・トルキア)とサイモン(アーチー・マデクウィ)はダニーとクリスチャンに「どれくらい付き合っているの?」と聞きます。
クリスチャンは「3年半くらいかな」と答えますがダニーが「4年よ」と訂正します。
ダニーが家族を失ったのは雪が降る冬、そして街路樹にイルミネーションが施されていたのを考慮するとおそらくクリスマスシーズン。夏至祭は6月ですから約半年のギャップがあります。
つまりクリスチャンはダニーが家族を失ったあたりから気持ちが離れていたことを示唆しているシーンになりますね。
「アッテストゥパン」について
ホルガ村では人生は季節であると説いています。
18歳までの子供は春。
18歳から36歳は巡礼の旅をする夏。36歳から54歳は労働の年齢であり秋。
54歳から72歳は人々の師となる冬。
そして72歳になったら崖から身を投じ次世代に輪廻転生するという信仰ですね。
実際にバイキング時代の北欧にあった信仰らしく(もちろん今はありませんよ)映画の中では72歳を迎えた老人2人が自ら崖から飛び降り命を絶つ儀式として描かれています。わりとショッキングなシーンなので繊細な方は自分の手のひらでも見つめていてください。
ホルガ村の人々に個の感情はないのか?
村人の誰かが痛みに悶(もだ)えれば共になってもがき苦しみ、村人の誰かが笑えば一緒になって笑い、悲しみも喜びも運命共同体として共有する、個を放棄し群に従うといった没個性とも思えるようなホルガ村の人々ですが、アホのマークが村の御神木に粗相をしてしまったとき、ウルフという村人がマークにブチ切れるんですよね。
このことから察するにホルガの人々にも個の感情はちゃんと存在していて、しかし村の掟(おきて)により抑制させられていることがうかがえます。
ニコニコしていても腹の中では何を思っているのかわからないという不気味な印象を植え付けられるシーンでした。
メイポールダンスはやらせなのか?
メイクイーンを決めるダンスバトルでダニーが優勝するのですが、なーんか嘘(うそ)くさいんですよね。
何の説明も受けずに怪しげなドリンクを飲まされて言われるがままに踊っていたらなんか優勝しちゃったといった感じ。
転んだら負けというルールも謎すぎるし、何より女性たちの転び方がわざとらしくて疑問が残ります。
もしかしたらダニーを優勝させて村の一員として受け入れるというシナリオがあらかじめ用意されていたのかもしれないと思うとゾッとしますね。
草木や花が蠢くとき…
ダニーがいけないお薬をキメているとき、草木や花が蠢(うごめ)くというギミックが施されています。手から草が生えていたり、花冠の花がパクパク呼吸をするように動いていたりするときはお薬がキマっているときで、その最たる例がダニーがメイクイーンに選ばれ神輿(みこし)のようなもので担がれながら村を練り歩くシーン。
背景の森に注目してみてください。ダニーの妹がガス管を咥(くわ)えた形になっているんです。
これをたまたま見つけてしまったときはさすがに腰を抜かしました。
性なる儀式について
ホルガ村は小さな共同体であるため近親交配が懸念される。そのため時折外部の者を受け入れて血筋を守っているのだとか。
今回は村の少女マヤがクリスチャンを見初め“性なる儀式”に誘うことになるのですが、その方法が噴飯レベルでエグいんですよね。
クリスチャンの食べ物に陰毛を混入させたり、自らの経血をクリスチャンの飲み物に混ぜたり、恋のおまじないというより、もはや呪いレベルで禍々(まがまが)しい。
しかも結局はお薬で半強制的に誘うという「あの気色悪いおまじないは何だったの?」と言いたくなるような身も蓋(ふた)もない顛末。
そしてマヤがクリスチャンを見初めたという体裁を取っていますが、たぶんこれ、村の偉い人が決めていますよね?
というのもホルガ村はおそらく白人の血しか求めていない優生思想の文化(アリ・アスター監督もなんとなく仄めかしていました)。
マヤに任せていたらジョシュやサイモン等の有色人種を選んでしまう可能性もありますから、おそらくは長老会議のようなものでクリスチャンに白羽の矢が立ったのだと予想できます。
そして衆人環視の元で性なる儀式が行われるわけですが、正直このシーンは怖いというよりもシュールですよね。
マヤが「アー、ハーン」と喘(あえ)ぎ声を上げれば、ベテランのお姉さま方も同調して「アー、ハーン」と喘ぎ声を合唱するシーンはもはやコントの領域。
アリ・アスター監督って緊迫したシーンで笑いを入れて視聴者の感情をぶっ壊しにくる癖があるんですよ。怖いのに笑ってしまうって、もう情緒が追いつかないですからね。
生贄(いけにえ)の9人まとめ
コニー(ロンドン組)・川の刑に処される
サイモン(ロンドン組)・血の鷲の刑に処される
マーク(アメリカ組)・愚か者の皮剥ぎの刑に処される
ジョシュ(アメリカ組)・犬神家の刑(?)に処される
アッテストゥパンのおじいちゃん(ホルガ民)
アッテストゥパンのおばあちゃん(ホルガ民)
ウルフおじさん(ホルガ民)・アホのマークにブチ切れていたおじさん
イングマール(ホルガ民)・コニーとサイモンをホルガに連れてきた青年
そして最後の生贄はメイクイーンが決めるという儀式の流れの中、メイクイーンであるダニーは恋人であるクリスチャンを選んでしまうという鬱展開に……。
ダニーの笑顔の理由とは?
家族を亡くしアイデンティティーのよりどころがクリスチャンしかいなかったダニー。しかしクリスチャンはそんなダニーを快く思っていない、なんなら「めんどくせえ」とさえ思ってしまっている。
そんな中、ダニーが泣けば共に泣いてくれる仲間を見つけた。
ホルガの人々こそがダニーが求めた家族であった。
燃える聖殿を見ながらダニーが浮かべた笑顔の理由は、新しい家族を見つけた再生の笑顔であるという見方が一般的な解釈になっているのですが、アリ・アスター監督が明言しているようにこれって「失恋映画」なんですよね。
失恋の傷心が描く最悪のシナリオって「心中」だと思うのです。
奇しくもダニーの妹が双極性障害を患い両親を道連れに心中を図ったように、ダニーにもその兆候が見られていました(躁&鬱)。
病んだ人は自責の念が強い傾向にありますから、クリスチャンがクズであれ他責処分はしないで自責で片付けようとするのが鬱心理。
もしかしたら最後の生贄(いけにえ)にクリスチャンを選んだのは、心中を図ろうという思惑があったのかもしれない。ラストの花のドレスの中では何らかの方法で深い自傷を負っていたのかもしれない。
そして最後の笑顔の理由とは、「生」という呪いから解き放たれる禁断の快感によるものだったのかもしれない。オープンエンド方式でエンディングの解釈に正解はないんですけどね。
そういった解釈もできるということです。
『ミッドサマー』の魅力
ミッドサマーは非常に情報量が多く、ルーン文字や意味深な絵画、果ては北欧神話に至るまで伏線(?)が張り巡らされている作品になります。
「ルビンって結局なんだったんだ?」とか「9日間あるはずの夏至祭が5日間しか描かれていないじゃん?」とか「90年に一度の大夏至祭じゃなかったんかい!」とか、「ペレって黒幕じゃね?」とか、まだまだ謎は残されていますが、見落とした情報を丁寧に集め、点と点を線でつなぎ、自分なりの解釈で謎を補完していくという見方ができるのもミッドサマーのひとつの魅力です。
6月の夏至の頃の夜に頭を悩ませその“鬱くしさ”に浸るのもまた一興かと。
まだ見てないという人はもちろん、すでに見たことがあるという人もこの機会にぜひ『ミッドサマー』をご賞味ください。映画『ミッドサマー』は、U-NEXTで配信中。
■映画情報
作品名:『ミッドサマー』
コピーライト:(C)2019 A24 FILMS LLC. All Rights Reserved.
U-NEXTで配信中。