「でもブスだよね?」——仕事で評価されても地位を得ても、私たち女性はその一言で突き落とされてきました。それほど強く根付いた“ブス”という価値観が、近年のCMや企業動画の炎上を経て、少しずつ変わり始めているようです。それでも、いまだ“美人“であることを求められる現代社会。私たちはどうサバイブしていくべきなのでしょうか?
著書『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)などで女性を論じてきた稲田豊史さんと、数回にわたり紐解いていく連載です。
「ヤバい」はOK、「ブス」はNG――の境界線
非常に危険な連載を引き受けてしまった。
ウートピ編集部から「女性の“ブス”の価値観の、昔から現在の変化を記事にしていただけないでしょうか」という依頼をいただいた時には、はっきりいって躊躇した。
こちとら御年42歳のオジサンである。ブス、すなわち女性の不美人について何かを物申す、だと?
心してかからねば、一発炎上は必至。昨今なにかと流行りのポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)的な観点からしても、男が書くには適当とは言いがたい、というかリスキーかつデリケートすぎるテーマである。
依頼の意図は理解できる。一昨年上梓した『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)という本で、アラサー女性(というくくりかた自体も、ある種の方にある種の不快感を抱かせるのですよね、すみません)について思うところを分析したからだ。
ただ、同書では女性の容姿についての直接的な言及を避けた。美醜はあくまで主観的なものだし、生まれ持った顔の造作は個人の努力で変更することができないからだ。
もちろん整形という“努力”もあるが、そこに向けられる批判的世論に耐えねばならない理不尽や、財力がなければ実行できないという点において、万人に開かれた選択肢とはいえないだろう。
以前、ウートピで北条かやさんと対談*させていただいた時、女子にとって「顔がヤバい」はOKだが、「顔がブス」はNGだと聞いて、なるほどと得心した。
「ヤバい」は顔がむくんでいるといった、単なるコンディションの悪さを描写しているにすぎないが、「ブス」は土台からダメだという一撃必殺の罵倒文句。
「『ブス』という言葉には本質的に、女失格の烙印を押されてしまうくらいの破壊力があるんだと思います」という北条さんの言葉は、ひたすら重い。
*「整形する女の幸せは誰が決めるのか 理想の顔に近づきたい女と反対する男の心理」
女の「ブス」は、男の「低年収」+「童貞」
百歩譲って女子が「ブス」を自称するのはよいが、他人に、特に男性からは絶対に言われたくないという側面もある。覚悟した上での自虐ならまだしも、部外者から勝手にレッテルを貼られたくない……という意味で、「ブス」は「腐女子」「ジャニヲタ」「こじらせ女子」に近い属性名称だ。
ちなみに女性の「ブス」に対応する男性への罵倒文句は「ブサイク」だが、男性が受けるダメージは女性よりずっと小さい。
男性サイドには太古の昔から、「顔はマズくても中味が良ければよし」という、女性にはあまり適用されない、男にとってはたいへん都合のよい救済ロジックが存在するからだ。「短足」「デブ」「ハゲ」も同様に、女性に対する「ブス」ほどの破壊力はない。
では、男にとって「ブス」とギリギリ肩を並べられる罵倒文句がなにかといえば、おそらく「低年収」と「童貞」の合わせ技であろう。男たちはいつだって、心のどこかで「年収」と「経験人数」によってマウンティングを行う生き物だからだ。
なお、女性側からの「年収なんて頑張っていい会社入れば上がるじゃん」「童貞なんて店で捨てればいいじゃん」という反論には、そっくりそのまま「ブスなら整形すればいいじゃん」と返したい。金銭的・精神的・能力的・状況的にそれができないから、苦労しているわけで。はい。
とにかく、男が「俺は年収や経験人数では勝負してない」、女が「私は顔の美醜で勝負してない」と胸を張って言い切るには、いずれも鉄のようなメンタルと、蟻の這い出る隙もない完璧な理論武装を必要とするのである。
「ブス」から「才能ある女子」に変化したジャイ子
実は以前、「ブス」の変遷について言及した文章を、「ほぼ日刊惑星開発委員会」というメルマガにしたためたことがある。*
これは会員限定の有料記事なので、ざっと該当箇所をサマリーする。『ドラえもん』に登場するジャイ子は当初、「忌み嫌われるブスの象徴」「のび太の不本意な結婚相手」として登場したが、連載が進むにつれて次第にその色を薄め、最終的には「マンガの才能がある文化系女子」として確固たる地位を確立した――という論旨である。
『ドラえもん』の連載終了は作者である藤子・F・不二雄が逝去した1996年。そこから現在までの約20年間に、「ブス」が文化系女子としてどうサバイブしていったかは、次回以降の連載回に譲るとして、まずは直近の状況を確認しておきたい。
*『ドラがたり――10年代ドラえもん論』第6回 ふたりのファム・ファタール 後編
イケメン俳優の妻を演じる、女芸人の活躍
ここ数年は、従来であればメディアで「ブス」の枠組みにカテゴライズされていた女性タレントが、少なくとも建前上は「ブス」キャラではない起用のされかたをしている。
たとえば、渡辺直美が西島秀俊の妻に扮したアフラックのCM*は、彼女を「ブス」扱いして嘲笑しているわけではない。ハリセンボンの近藤春菜が綾野剛の妻に扮したNTTドコモのCM*も同様だ。
ここで、「渡辺直美は太っているだけで、本来は美人だ」という議論は、いったん脇に置こう。いまだ根強い男性の昭和的・前時代的な発想からすれば、「ブス」と「デブ」はほぼ同カテゴリだからだ。また、「春菜がその父親役に扮する角野卓造にそっくり」という笑いの要素は、「ブスを嘲笑」とは明確に別軸のものだと理解されたい。
もちろん、いずれのCMも「夫役イケメン俳優とのギャップ」による演出上のおかしみは、意図的に狙ったものである。
しかしここで注目すべきは、大手企業の企業イメージ向上という重大ミッションを担った全国区のCMに、いわゆる「綺麗な女優さん」ではなく、かつてであれば安直に「ブス」カテゴリ入りしていたであろう彼女たちが起用されたという事実だ。おそらく、約20年前にこのような状況はなかった。これは明確に「国民の価値観変化」と捉えてよい。
「ブス」の地位はいまだ向上せず…どうする?
一部の売れっ子女性芸人の活躍だけを取り上げて、「ブスの地位が向上した」などと決めつける気は、さらさらない。
ただ少なくとも、「公共の電波にそんな造作の顔、出すんじゃねーよ。飯がまずくなる」といった心無い男どもの声が、アフラックやドコモといった幅広い世代が顧客となりうる大企業が「無視してもいい」と思えるほどには、世間から減少した――とは言えるだろう。
というわけで、今後数回の連載を通じて、社会における「ブス」の受け取られかたの変遷に加え、彼女たちがその時々でどう「サバイブ」していったかについてを考察していく所存である。無論、できるだけ謙虚かつ中立に(炎上したくないので)。
(稲田豊史)