コロナ禍でひとりの時間が増え、つらさや悲しさに目を向けがちな方もいるのではないでしょうか。『母親病』を出版した森さんも、幸福なはずなのに、不幸を抱え暗鬱としていたそうです。闇から抜け出すことができたきっかけは何だったのでしょうか。
*本記事は『cakes』の連載「アラフィフ作家の迷走性(生)活」にて2021年7月31日に公開されたものに一部小見出しなどを改稿し掲載しています。
数年間コツコツと書き進めてきた小説の新作が、ようやく6月*に出版された。
*2021年
コロナ禍やその他の事情で発売が延期になったとはいえ、このご時世に紙の本が出版できるのはとてもありがたい。事前に30代~50代のモニター読者を数十名募集し、なんと全員が絶賛してくださった。詳しくは帯コピーを参照していただきたいが、とにかく幸運だし、幸福だった。
やっと作品が日の目を見たのだ。苦労など一瞬で吹っ飛ぶ。
はずだった。私は幸運で幸福のはずなのだ。頭ではわかっているのに、心はそれを認めなかった。私はひたすら不運で、不幸だった。傍から見れば華やかな状況だと十分すぎるほど理解しているからこそ、つらかった。新潮社からいち早く見本が届いても、箱を開ける気すら起こらない。渋々開封して、産声を上げたばかりの本をろくにさわりもせず、そそくさと本棚にしまう。一連の行為はまるで、自分の子供を虐待しているかのようだった。
なんでこんなにうれしくないのだろう、と夜中に(うれしくないのがつらすぎるので眠れない)延々と考えた。理由のひとつは発行部数が少ないことだ。生みの苦しみがものすごかったにもかかわらず(いえ、どの作家さんも血反吐を吐くほど苦しんでおられます)、読者の元に行き渡らないジレンマ。いろんな意味で「残念で賞」という印を押されてしまったような、作品に対しての申し訳なさ。「いたらない母でごめんなさい」と子供(本)に謝りたいけれど、そうしてしまうと残念印と至らなさの両方を認めてしまうことになるので、できない。
Twitterのエゴサがさらに自分を苦しめる
出版に限らず、音楽や映像の配信、テレビドラマ、創作にはこういった精神のアップダウンはつきものだ。コロナ禍の影響もあり、どの業界も不況で流通も低迷していると思う。私に限らず、しかたがないのだ。と、わかってはいる。私などまだまだ甘いのだ。頑張りが足りないんだよ、頑張りが!
と、自分を奮い立たせてみたものの、頻繁にやってしまうのはAmazon順位の検索にTwitterのエゴサ。誰か私の本を読んでよ読んで読んで読んでー、っていう無言の自己主張。真夜中、夜明け前、つまり一晩中スマホと首っ引き。一晩中、誰かが私(の本)を気にしていないか気にしている。誰が四六時中私(の本)を気にしてるっていうのだ?いるわけないっつーの。ていうか私、「本は自分の子供ですから、巣立ってしまったらもう自分のものではありません」って偉そうにどこかで語っていなかったか。そもそも私自身が親離れしたくて、親を否定して生きてきた人間だろうに、自分の子(本)をいつまでも支配下に置こうとするのはやめようよ。
と身も蓋もない思考の出口をむりやり作った頃に夜が明ける。なんかこの状況ヤバい?鬱?いや、こんな幸運で幸福で恵まれた私が鬱だなんて鬱に申し訳ないだろう。プレ鬱?プチ鬱?違う、ただの怠け癖、ほら、頑張りがたりない証拠だよ。もっと頑張らなきゃ、もっともっと。もっともっともっと。
という具合に人は鬱になっていくのだろう。第一、頑張りの頂点ってどこにあるのか。誰が決めるのか。「よく頑張りました」「最高で賞」という印や証書は、どこで誰にもらえばいいのだろう。
つらさの根源を探ってみたら……
長雨も手伝ってどんよりしていた私に、久しぶりの晴れ間が差したのは文字通り梅雨の晴れ間の朝だった。「うっかり闇(病み)の原因って、本だけなのかな」と思い立ち、ノートを広げてフローチャートを作成してみた。テーマは「ザ・つらさの根源を探る」。
まず、何がつらいのか思いのまま書き出してみる。「本の発行部数が少ない」「読んでもらえない」。それによって自分の心はどうなるのかを矢印を引いた先に書く。「仕事が続けられない」「目立たない」「誉めてもらえない」「努力が認めてもらえない」。本来はさらに細分化させるのだが、私のペンが止まったのはここだった。
「誉めてもらえない」「努力が認めてもらえない」。そういえば私は、親に誉められた、認められた経験がないのだ。いや、もしかしたらあるかもしれないが、私の記憶にはまったくない。幼少期はおろか多感な十代にも「頑張ったね」「よくやったね」と一言、たった一言すら言われた経験がない。なるほど、だから私は誰かに頑張りを認めてもらえないとつらいのだ。不安でしかたがなくなるのだ。
生まれてこのかたダメ人間だったのかー、とフローチャートに突っ伏して泣いてみた。闇の原因は本を隠れ蓑にした承認欲求だった。原因が解明してよかった、と泣きながらよろこんだ。50歳の女が部屋でひとりフローチャートを作成して泣く、という図は悲惨かもしれないし、よろこぶべき案件?と我ながら疑問だが、泣くのは大事である。心が溶けた証拠だから。
客観的に見て、大手出版社から紙の本が出版された、というのはいいことだと思う。生まれてこのかたダメ人間なんて世の中にはいない。絶対にいないのだ。と、わかっているのだけど「私ってダメ人間」と思わされている人はたくさんいるだろう。先程、私は親に誉められた、認められた経験がない、と書いたが、親のほうは親のほうで誉める余裕がなかったかもしれないし、誉めたつもりなのに私には伝わっていなかっただけかもしれない。親と子、お互いの記憶の行き違いかもしれないのだ。でもこの手の呪縛はけっこう根深くて、私のように何かが隠れ蓑になっているせいで見えない場合もある。
自分で自分に賞を与える
ここ数年、否応なしにひとりの時間が増えて、つらさや悲しさが際立ち、私みたいに闇に足を踏み入れた人もいるかもしれない。苦しい、つらい、という人は私のようにフローチャートを作って、心をあぶり出してみるのも一考だしカウンセリングを受けてもいいと思う。原因がわかれば泣けて、心は溶けていく。
50歳なのにまだ親に誉めてもらいたいのかよー、認めてもらいたいのかよー、って我ながら笑っちゃうのだが、事実なのだ。ところが母親ときたら(父は既に他界)もう80歳だし、気丈に振る舞ってはいるが歩く姿は弱々しいし、目も耳も悪くなって、姉や私が支えてあげなくてはならない。時々そっと「ありがとうね」と言われたりする。なんとなく、そういうのでもう十分かな、と思う。親にしても何にしても、誰かに、何かに必要とされているだけで存在価値はあるのだ。だからだんだんと、親に対する承認欲求は薄れてくるだろう。
頑張りの頂点はないし、あるとしたら自分が決める。「よく頑張りました」「最高で賞」という印や証書も、自分で与える。表立った賞には期限があったり、次々と他の人が受賞したりするけれど(それもまた欲しいっちゃ欲しいんだけど。正直!)、自分が決めた、与えた印や証書は永遠だ。
四六時中自分を愛でるのは、自分だけでいい。