鏡に向かって、つぶやいてみる。「きれいになりたい気がしてきた」

鏡に向かって、つぶやいてみる。「きれいになりたい気がしてきた」

2月24日に発売された、ジェーン・スーさんの『きれいになりたい気がしてきた』(光文社)。本書を読んで感じたことを、詩人でイベントオーガナイザーでフェミニストの内田るんさんにつづっていただきました。

テレビや漫画の中の美少女と自分を比べて戸惑ったあの日

「きれいになりたい」と口に出すことの気恥ずかしさ、ためらいはどこから来るのか。
 
それでいて、きれいになろうとすることは、現在の社会の中で「正しいこと」「するべき努力」として女性につきまとっている課題でもあるように思う。
 
自分のためにきれいになる、というのは言葉にすると簡単なようだが、じゃあその「きれい」の判断基準はどこからやってきたのか、誰から与えられたのか。
 
現在アラフォーの私が子供の頃、テレビの中では斉藤由貴、牧瀬里穂、観月ありさ、西田ひかる、漫画やアニメの中ではデフォルメされた美少女キャラクターたちが群雄割拠していた。
 
私は彼女たちが「女」の基準だと思っていた。それなのに鏡に映るのは、まるっこい顔の一重瞼の子供だった。おかしい、なぜ私のお腹は、彼女らと違ってこんなにポコっと前に出ているのだ?それまで「私が一番可愛い!」くらいに図々しく思っていたはずなのに、社会性を持っていく過程で、「足りないもの」を強く意識するようになってしまった。
 
未就学児なのにダイエットしたいとか言い始める始末だ。足りないものを全部埋めたところで斉藤由貴にはなれないのに、その頃にはすでに、社会が「足りなさ」を自覚するように迫っている空気を感じてしまっていたのだろう。

「きれい」は強く「きれい」は便利?

小学校に上がった頃は、年上の幼馴染のおねえさんたちが、当時絶大な人気と注目を集め、十代でありながらヌード写真集を出し、センセーションを巻き起こしたある有名女性俳優の悪口を言っていた。性格が悪いに違いない、あんなのブリッコだ、と。私はそれを聞いて、これから「おねえさん」になっていくためにも、その女性俳優を悪く思う必要性を強く感じた。
 
実際、学校で先生に、色んな女性タレントのことが好きだけど、その人だけは好きじゃないとわざわざ言った記憶がある。よほど自分でも違和感があったのだろう、6~7歳の頃の記憶なのに、妙にはっきり覚えている。もちろん、彼女のことは、別に嫌いじゃなかった。
 
幼馴染らは整形疑惑のある女性芸能人にも厳しかった。「〇〇は絶対に整形だよ、卒業アルバムと違いすぎる」と。そうか、整形手術をして綺麗になることは良くないことなんだ、と私はシンプルに信じた。でもそれも一体、何がどう悪いんだろうか。わからないまま受け入れた。
 
「きれいになる」ことで、全男性から良く思われたい、贔屓にされたい、優しくされたい、認められたい……性的な欲求による漠然とした願望と混ざりあい、若い頃の自分の中に差し迫っていた、美への強い欲求は、男性社会の中で有効な武器や権威が欲しいという気持ちでもあったと思う。
 
「きれい」は強い、「きれい」は便利。それなのになぜ、整形美女はダメなのか。今は想像がつく。社会において、女性は自分を美しく見せることに主体的であってはいけないのだ。女性の美は男性の所有物であって、女性が自分の美を掌握するのは、男性社会が望むところではないのだ。きれいであっても、男ウケが悪いのはダメなのだ。

「正しい女」になろうとしていたおねえさんたち

「美魔女」が世に登場した頃、彼女らに憧れる気持ちがほとんど芽生えなかった当時の私の気持ちの奥には、「老いを否定して『おばさん』をやることから逃げても、男性に愛されるとは限らないじゃないか」という考えがあったと思う。
 
「男ウケが良いことこそが社会性」という無意識の刷り込みは、学校に上がる前からあらゆる場所で叩き込まれる。このようなフェミニズムと相反する思想が根深く染みついていることに頭で気づいたとしても、男性の目線を全く意識しないで生きていくことは実際には難しい。
 
幼馴染のおねえさんたちは、すでにティーネイジャーで、自分たちが「子供」ではなく、これから「女」として社会の中で生きていかねばならない不安から、必死になってあの女性俳優を糾弾していたのではないか、と今は思う。まだ少女に近い年齢でありながら自分の性的魅力を自覚している彼女は、世間が恐れる存在感があった。「正しい女」になるため、「男に嫌われない女」であるため、男性の目線、嗜好、価値観に寄り添わなくてはいけない。私たちは、その空気を読んでしまっていたのだろう。

「きれい」は対等に扱われるための条件?

では「男ウケ」はどうして必要なのか。社会は先に生まれた人たちが作ったものだ。だから先に生まれた人たちが作ったルールがある。それは仕方ない。そして、今のところ「先に生まれた男性たちを中心に作られた社会」に暮らしている。
 
私は女性だけど、自分のことを「人間」だと思っているので、男性が作った社会の中でも当然、一人の人間として尊厳も人格も認められているものだと思っていた。しかし実際はどうだろうか。慣習でも法律でも、女性は男性の補佐役にすぎないという前提で未だに日本社会は回っているように思う。ここで長く説明する必要もないかも知れないが、ジェンダーギャップ指数は2021年、156か国中120位。先進国の中で最低レベルである。
 
「きれいになる」ことは、男性社会において求められている女性の義務の一つとして、(性的に魅了することで感覚的にも)社会の中で男性に対して引け目を持たず、対等な人間として扱われるために必要な手段なのだと、私は当たり前のように思っていた。
 
結局、私はこの男性社会に何かを期待していたのだ。「賢くてしっかりしたきれいな女」は社会で男性同様に公平に扱われるはずという、あまりにも愚かしい期待だ。言うまでもないが、全ての人間は個人の尊厳が保証されている。
 
不美人だから蔑んでいいとか、無能だから人格を軽んじていいとか、そんなことは憲法が許していないのだ。しかし、現在の日本社会の中では、(表向きには変わりつつあるも)女性は「役割」以外は求められていない。要は、女性に人格があること自体が、「男ウケしない」のだ。
 
今、世の中の女性たちはどんどんきれいになっている。美魔女も、アラフィフもアラフォーもアラサーも、思春期の少女たちも、後期高齢者も。ファストファッションで体型をうまくカバーしてくれるアイテムが低価格で手に入るし、YouTubeにはメイク指南の動画も無限にある。「きれい」も「可愛い」も「オシャレ」も、昔より手軽になった。私は、良い時代になったなと思うけれど、本当に女性にとって「良いこと」なのかどうなのかは、わからない。

「きれいになりたい」の正体について考える中で…

 
今回、ジェーン・スーさんの新刊『きれいになりたい気がしてきた』を読む機会をいただき、「きれいになりたい」の正体についていろいろ考えさせられた。わずか二、三十年の間にみるみる変化していく価値観や世の中の美意識、自分自身の考え方、美容技術や化粧品の進化、日々老いていく自分の身体、手放せるものと諦めちゃいけないものの見極めはどこですればいいのか。その中で、私が一番ハッとさせられたのが、第三章の「ニューノーマルと女友達」の一文だった。
 
世界的なコロナ禍により飛行機は止まり、「グローバリゼーション」は脇に置かれ、あらゆる場所で分断が起きている。「自分さえよければいい」という考え方ではウィルスに勝てない。「私たち」の範疇をもっと広く持たねばいけない、という話は、直接「きれいになる」ことと関係ないように思えたが、”誰に対しても、親しい女友達と接するような心づもりでいられたらいいのに。”と表現した部分で、突然、視点がぐるりと反転した。

私はこれまで「利害関係のある他人」や「世界各国の人々」を思い浮かべる時、ぼんやりと対男性のイメージを持っていたのだ。でも、もしこの世が、政治も経済も学問も芸術も、女性ばかりが活躍する世界だったら、私にとって「社会」は「女友達になれるかもしれない人」ばかりの世界なのだ。
 
「異性と折り合いをつけられないと社会で通用しない」という逼迫感は、今現在は、女性だけのものなのかもしれない、男性から見える「社会」は、私たち女性が見てるものとは全く違うのかも知れない、と今さら気づいた。
 
”私は常々、正しい理屈より目が慣れることのほうが重要だと思っています。”(p85)
 
性差別が何故悪いのかを、この社会で説明し続けるのは、無理ゲーのルールに正攻法で戦っているようなものだと思う。もちろん正攻法は正攻法の理がある。でも本当にクリアしたいなら、物量作戦で挑んでみるのも有効だろう。

みんなして頑張って「きれい」になってみて、わかってきた

21世紀に入り、日本女性たちは「不美人」と蔑まれて声を塞がれないために、きれいさの平均値を爆上げした。先人たちが残したログデータや攻略メモをかき集め、本やラジオやインターネットを通じて集合知にし、チート技を使ったり、コースをショートカットしたりして、少しでも前に進もうとしている。
 
これで少しはゲームを有利に進められるはず……と思ったが、まだまだそういうわけでもないようだ。あらゆる理屈や手段で、「女」の声は無視されている。巧妙かつ、呆れるほど無根拠に、堂々と。
 
だから私たちの「きれいになりたい」という思いの裏には、「きれいになれなければこの社会では尊厳を保証されないのが、女性という性なのか?」という、絶望的な疑惑がついて回っていた。でも、
 
”女が女のままであることを、女が否定することほど悲しいことはありません。”(p75)

”世間が望むおばさん役を私たちが引き受ける必要はありません”(p30)
 
その通りだ。こんなクソゲーに付き合う理由は、最初からなかった。みんなして頑張って「きれい」になってみて、ようやくわかってきた。
 
頑張ってイメージしてみる。「女性に生まれたことで、誰かに遠慮しないといけない」ことがない世界を。女性がみんな「男ウケ」を放棄したって、社会は回るし、回せるってことを。
 
その時、私が自分に求める「きれい」とはどんなのだろうか。
 
「きれいになりたい気がしてきた」、鏡の前で頬杖ついて、もう一度口に出してみる。

21802

(内田るん) 

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