夫の腎臓をもらった私 第9回

「腎臓をもらったら、私の中で生きられるね」余命1ヶ月の母にした最後の親不孝

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「腎臓をもらったら、私の中で生きられるね」余命1ヶ月の母にした最後の親不孝

「夫の腎臓をもらった私」
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中学1年生の時に腎臓病になり、36歳で末期腎不全になってしまった、ライターのもろずみはるかさん。選択肢は人工透析か移植手術という中で、健康な腎臓を「あげるよ」と名乗り出たのは彼女の夫でした。

今回は、実のお母さんへの思いについてつづっていただきました。

余命1ヶ月の母にした最後の親不孝

これまで、夫がドナーになった経緯をお話ししてきましたが、今回は実母の話をしようと思います。腎臓移植にあたって、ドナーの候補にあがったのは、実夫、実姉、夫の3人でした。その回を読んで、「なぜ実母は手をあげなかったのか」と、思われた人もいるかもしれません。

誤解なきよう伝えたいのですが、ドナーのクロスマッチングテスト(腎臓を提供する人に対する、主にHLAに対する抗体がないかどうかを調べるもの)が行われたのは、2017年。母はそれより前の2015年、66歳の時に肝臓ガンでこの世を去りました。

あげたくてもあげられなかった、という表現があっているかどうかはわかりません。

私は余命1ヶ月の母に向かって「母の腎臓をもらったら、私の中で生きられるね」と口を滑らせてしまったことがありました。今でも思い出すと情けなくなるのですが、母を失うのが怖くて、せめて母の腎臓だけでも生きてくれたらと願ってしまったのです。

けれど、それを聞いた母は、虚ろな目をして私を見ただけで、何も言いませんでした。その瞬間、私は自分が生きることしか考えていなかったと、無性に恥ずかしくなりました。

結果的には、悪性腫瘍(がん)がある母から腎臓提供を受けるのは不可能なことでした。移植される腎臓と一緒に悪性細胞が移植されるためです。けれど、そのことを知ってもなお、私は「なんという親不孝をしてしまったのだろう」と心苦しく思うのです。

免疫抑制剤と戦いながら思い出したのは

母の死への思いが変わったのは、私が免疫抑制剤を飲み始めたことがきっかけでした。

前提から説明すると、腎移植を成功させるために最も大切なことは、拒絶反応を起こさないことです。新しい腎臓を体に入れると、体は「異物が入ってきた!」と誤認し、異物を外に出そうとします。これを拒絶反応といい、起こってしまうと、せっかくの腎移腎をダメにしてしまいます。そうならないようレシピエント(受給者)は免疫抑制剤を一生飲み続ける必要があります。

免疫抑制剤を飲み始めるのは、移植手術を行う1週間前です。強い薬なので、入院してから服用を開始します。個人差があるそうですが、免疫抑制剤は私の体には合いませんでした。ひどい2日酔いのような症状に襲われ、初日はほとんど眠れませんでした。そんな状態が3日も続き、不安になり始めたころ。医師から「リツキサンという薬剤を投与させてもらえないか」と言われました。

ネットで調べるとリツキサンとは抗がん剤や免疫抑制剤に使われる製剤で、拒絶反応の抑制効果があることがわかりました。私はドナーである夫の子どもの妊娠歴があるため、念のため1日限定でやっておきましょう、ということでした。それは特例の処置でしたが、私には必要なことでした。(医学的な理由がありますが、ここでは割愛します)

でも、抗がん剤って——。

リツキサンがポツリポツリと落とされる点滴のしずくを眺めていると、母の姿が浮かんできました。抗がん剤が投与されるようになって母が亡くなるまで、1年以上かかりました。その間、母はどれほど辛かったのかな。それなのに、なぜ最期まで気丈でいられたのかな……。

妊婦のように膨らんだ母のお腹

母のガンが発覚したのは、2015年春、私はそのことを母から電話で告げられたのでした。

「お母さんガンになったんよ。あんたは帰ってこんでいい。忙しいんやろ」

電話口の母は小さな声なのにおどけていて、娘に迷惑をかけまいという気持ちが伝わってきました。それがかえって、事態は私が思うより深刻なのだと知らせてくれました。急いで福岡の実家に帰ると、案の定、母のお腹は妊婦のように腫れ上がっていました。

「すぐ手術してもらわんでいいん?」

動揺を隠せない娘の態度とは対照的に、母はのんびり構えて言いました。

「先生は急ぐ必要ないって。ベッドの空きもないんやろうし、ちゃんと手術の日は決まっとるけん」

前回も少し母の話をしましたが、とにかく人様に迷惑をかけることが大嫌いな人でした。こちらの都合で手術日をリスケしてもらうなど、1ミリも考えていなかったに違いありません。

手術までの1ヶ月きっちり待って、母は手術を受けました。それは予定終了時刻をゆうに6時間は超える、長い手術になりました。

「癒着がひどくて時間がかかりましたが手術は成功しました。念のため半年間だけ抗がん剤をして、問題なければ治療は終了します」

汗を拭いながら、母の主治医はそう言いました。

ホスピスに入るまで“日常生活”を続けた母

けれど、万に一つとはあるもので、半年後、母のがんは転移しました。医師は抗がん剤の種類を何度も変えたけど母の病状は日ごとに悪化し、ついには通院できなくなりました。

「おかしい。セカンドオピニオンを受けてみんかね?」

父も私も何度も提案しましたが、母は「先生がちゃんと診てくれているから心配ない」の一点張りで、自分の生活を変えようとしませんでした。

できるだけ毎日料理をしたし、町内会の草むしりや、民生委員のボランティア活動も参加しました。

大好きな読書も続けました。小説しか読まなかったのに、最後は『7つの習慣』や『嫌われる勇気』を手に取り、「これを読んで救われる人がたくさんいるんだろうね」と感心していました。

もう海外に行くあてもないのに、30年続けているNHKラジオ英会話も、普段通り。母はホスピス(終末期治療を行う施設)に入る前日まで、抗がん剤の治療を続けながら、日々の生活を一切変えませんでした。

「これまでお世話になりました。ありがとう、さようなら」

母はホスピスに入ってから1ヶ月ほどで息を引き取りました。

末期の苦痛を緩和するためのホスピスなのに、つらくてもナースコールを鳴らそうとしない、本当に頑固な人でした。最後まで人に迷惑をかけまいとした母の姿は、他者から見れば、見習いたい姿ではないかもしれません。我慢を美学として語るつもりもありません。

けれど、私はその姿を見て、母は自分の生き方を貫いたのだと思いました。

亡くなる3週間前、母はベッドの上で、家族に向けてお別れの挨拶をしました。

「私は死ぬけど、未練も、悔いも、心配ごともない。これまでお世話になりました。ありがとう、さようなら」

絞り出すようなかすれ声でしたが、なんとも清々しい顔でした。死者のことは忘れて自分の人生を生きろと、言われた気がしました。そのせいか悲しさや喪失感よりも、晴れ晴れとした気持ちが勝りました。私だけではなく家族みんなが、お通夜も葬儀も終始笑顔でいられました。

私はこう思います。親は子に生き方を教えてくれるんじゃない。死に方をも教えてくれるのではなかろうか。そして子は、親の最期が立派であろうと惨めであろうと関係なく、この人が自分の親であったという事実を受け止めるんだと思います。それをどう解釈するかは、本人次第なのかもしれません。

親不孝を悔いても母は喜ばない

母の死後、独り身になった父は母の遺骨を抱えて福岡から千葉に引っ越しました。兄一家と暮らすためです。そこで新たな命が誕生し、孫が1人増えたことを母は知りません。そして、いよいよ末期腎臓病になった私が、夫から腎臓をもらって、命をつなぎとめたことも。

余命1ヶ月の母に言ってしまった残酷な私のエゴを今でも後悔していることも、母は知らないのです。

それなのに、私だけが親不孝を悔いているなんて……。私は今後の生き方で、母の思いに報いるしかありません。

「未練も、悔いも、心配ごともない。これまでお世話になりました。ありがとう、さようなら」と私も言えるように。

夫との別れもいつかやってくる。悔いのなく歩みたい

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だから、ダサくても、見苦しくてもいい。私は、生きるということにしがみついて、ただし、自分を見失うことのないよう、残りの人生を全うしたいと思うのです。

(もろずみはるか)

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