仕事でもプライベートでも、誰かに何かしてあげたとき、つい見返りを求めてしまうことってありませんか?
精神科医の名越康文(なこし・やすふみ)先生によると、本当の親切とは、忘れることが大事なんだそう。
良い「親切」とは?
前回「自分が困らない程度内」を超えた親切は、自己犠牲の快楽へと変わり、面倒くさい親切になると言いました。
じゃあ実際のところ、どの程度の「親切」っていうのが、自分にも他人にもいちばん有益なんでしょうか?
はい、設問。良い「親切」とは何か? う~ん、なんやろね?
僕の考えだと、たぶんひとつのキーワードになるのは「見返り」ってことかなと思います。
「自分が困らない程度内」の親切ってね、実は「見返り」をがっぽり得てるんですよ。その親切のおかげで、自分が「いい人」になれるから。自分で自分のことが「いい人」だと思えるって、これはすごくポイントの高い大変な見返りじゃないですか?
特に自己嫌悪に陥りながら朝目覚めた日なんか、ふと上手に他人への親切をしてあげることができたら、どんだけ自分が救われるか。「まあ、自分も捨てたもんじゃないな」って、しみじみ思えたりするわけやから。
その論理で究極的に言うと、「見返り」を求めない「親切」はありえない、とも言える。自分が意識して行っている限りは、ね。
無意識の「貸し借り」をしてみる
だから、本当に良い「親切」って、たぶん無意識に行っていることなんですよね。
「親切」って言葉を言い換えると、「貸し借り」っていう言い方にもなりますよね。自分が困っている時、相手がそっと手を差し伸べてくれた。だから、あいつには借りがあるんだ、というような。
その「貸し借り」っていうのもね、どこか遠いところでやったほうが美しい。すごい直近な感じで、「高い贈り物もらったから、早くそれに見合ったもの返さなきゃ!」なんていう貸し借りは、あまりに関係がギスギスしちゃいますよね。
だけど、比喩的に言うと、近所や町内から外れたところの、自転車で20分くらい走らなきゃいけない丘の頂上に置いてくるくらいの「貸し借り」。そうすると、夕陽が沈む頃くらいに、「ああ、あそこにアイツへの借りを置いてあるんや。まだ返せてないなあ」くらいに思う。これってすごく、いい関係だなと思いませんか?
こういう美しい「貸し借り」って、やっぱり普段は意識されないでいるものなんですよ。
たとえば僕にもね、なぜか会うたびに、その人の顔を見るたびに、なんとなく頭が上がらないような気分になる人が何人かいるんです。でも、その理由って、普段は忘れているんですね。よく考えたら、「ああ、そうか、あの面倒臭い仕事に最後まで付き合ってくれたからか」っていう風に、恩義の根っ子に突き当たるんですけど、普段はいちいち意識しない。
だけど、この人には借りがあるっていう感覚が、理屈を超えて身に付いちゃっているんです。ある種のトラウマなんですね、ポジティヴな意味の。
これは架空の例ですけど、たとえば自分が5歳の子供のときに、地震が起こって頭の上のところにタンスが倒れてきた。そこを父親が九死に一生を得るタイミングで助けてくれたと。そんな遠い日の想い出なんて、普段の生活の中ではまったく忘れているでしょう。
でもね、パッと薄暗がりの中でタンスを見たら、なぜか胸の奥がキューンとなる。その理由はしばらく思い出せないんです。でもぷらぷら歩いていたら、ふっと記憶が蘇ってきて、「ああ、そうか、あの地震の時、お父さんが助けてくれたんだった」と思い当たる。
本当の「恩義」ってね、たぶんそういうものなんですよ。普段は忘れて暮らしていても、深い感謝とか、良い意味での負い目の気持ちが、実は記憶にしっかりこびりついて、心の中の大切などこかに残っているもの。
逆に、いつも自分や相手の「貸し借り」——親切や恩義を頭に置いているのって、それこそ面倒臭い話じゃないですか。パワーバランスばかり気になって、結局、対人関係をぎくしゃくさせてしまう。
大切なのは、忘れること
だから僕たちに必要な心構えとしては、どんなに大きい親切でも、日々のささやかな親切でも、それをできる限りすぐ忘れるってこと。これはひとつの基準になると思います。
だって相手にしてあげた「親切」を、あんまりねちねち覚えていたら、もう「親切」じゃなくなるでしょう(笑)。「あの時、私はあなたにあんなことをやってあげたよね」っていう気持ちの尻尾をしつこく態度に出していたら、せっかくの「親切」が「打算」として相手に伝わってしまう。それだけでプレッシャーを与えて、相手の自由を拘束している感じになる。そうすると、おそらく相手はこちらに会うのも億劫になってくるし、自分にとってもどんどんマイナスに下降していくんですよ。
だから自分が行った「親切」はどんどん忘れるようにして、絶対に累積加算しない。これはなかなか大変なことですけどね。まぁ自分を救うためです。
また逆に、相手がしてくれた親切や恩義に対して、自分が敏感でいることは大切かなと思います。そうすると人間関係における失敗が少なくなる、っていう言い方は功利的すぎますけど、互いの絆を然るべき形というか、ひとつの安定に導くと思うんですね。逆にいうと、それくらい恩を仇(あだ)で返すということって世間にはたくさんあるってことです。
その意味でも、自分の人生を振り返って、あの時のできごとがいまの自分にどういう影響を与えているかを顧みるのは、重要じゃないかなと。「あの人がいたから、いまの自分がある」という分かりやすいことから始まって、それこそ直接には何をしてくれたわけでもない人だけれど、その人がいなければあの人との重要な出会いは決してなかった、といった一瞬の出会いの貴重さというものもある。数々の人々の網の目の中で自分が成立していることに、感謝と畏れを抱くことも時々は必要だと思うわけです。