チームで仕事をしているのですが、確認事項が多く、1日が確認作業で終わっていくことが多いです。さあ、これで関係各所への確認も済んだし、手が離れるかもと思ったら「俺(私)、それ聞いてないけど」と言われることもあって、膝から崩れ落ちそうになります。私のツメが甘いのもあると思うのですが、仕事ってそんなものでしょうか? もともと一人で黙々と作業するほうが向いているなあと思うのですが、もう少し頑張ったほうがいいのか、自分に向いていないと思われることにさっさと見切りをつけて転職したほうがいいのか迷っています。
環境を変えたほうが楽だけれど…
「頑張る」って、多くの場合は自分を変化させることが目的になっているじゃないですか。
苦手な業務をこなせる自分に変化するために頑張る、苦手な人と意思疎通のできる自分に変化するために頑張る、少しでも多くの人に認められる自分に変化するために頑張る……。
それらは社会で賞賛されていることではあるのですが、合理性という観点から見れば自分を変えるより環境を変えたほうが簡単なんですよね。
「自分を変える」って著しくエネルギーを消耗するし、それなりの時間もかかるし、莫大(ばくだい)なストレスを請け負うことにもなるし、かといって努力に見合った成果が保証されているわけでもない、ものすごく労力対効果の低い選択なんです。
その点、環境を変えるという選択は自分に合った環境を探せばいいだけだし、環境が人をつくっているところもあるので勝手に環境が自分を変えてくれるし、単身で努力をするより労力対効果が高いんですよ。
「努力」とは、ついついしちゃうもの
それでも今の環境にしがみついて努力を重ねてしまうのはなぜなのか。
それはただただ単純に「好きだから」なんですよね。
例えばゲームなんかでも、べつに誰が褒めてくれるわけでもなく、クリアしたからといって多額の報酬が貰えるわけでもなく、どうかすれば日常生活に支障が出てしまうほど研鑽(けんさん)を重ねちゃうじゃないですか。
自分を投影したキャラを立派な勇者に育てるために、寝食を忘れてしまうほど頑張っちゃうじゃないですか。
努力の真髄とはまさにそれ、合理性とか他者評価なんて度外視した内発的動機がすべて。
「頑張らなければ」とか「頑張ったほうがいい」といった倫理や計算ではなく、ただただ「頑張りたい」という欲求があるから頑張っているだけで、その欲求が満たされたときの快感を求めているだけなんです。
それが純度100パーセントの努力であって、地位や名誉や報酬なんて快感のおまけに過ぎないんですよ。
だから労力の割に見返りを期待できない「自分を変える」という努力ができてしまうということです。
努力とは、自分を鼓舞してするものではなく、ついついしちゃうもの。
理由のない「好き」という気持ちがその環境に感じられないのならば、ついつい努力をしてしまうような環境を探したほうがいいと思いますけどね。