災害婚から5年が過ぎて…「この男の子供が欲しい」と直感してからの私の選択

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災害婚から5年が過ぎて…「この男の子供が欲しい」と直感してからの私の選択

「産むも人生、産まないも人生」
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34歳で「子供がほしい病」に陥り、40歳で不妊治療をやめ、現在45歳となったコラムニストでイラストレーターの吉田潮(よしだ・うしお)さん。

今年2月に掲載して大きな反響のあったコラムをきっかけに新連載がスタート。「産まない人生」を選択することにした吉田さんが、「オンナの欲望」に振り回されっぱなしだったという30代を振り返り、今思うこととは?

第4回は、3.11を機に「この男の子供が欲しい」と直感、そして結婚を決意するまでについて書いていただきました。

人生の転換期

子供が欲しいという病は、微熱状態が続いていたのだが、積極的に動きはしなかった。つうか、まだ結婚もしていないし、同棲もしていない。

不妊治療を始めなかったのは、そこまでの覚悟とお金がなかったからだ。「不妊治療は高い」という話をほうぼうから聞いていたし、周囲には不妊治療を開始したという人もいた。人工授精の苦労話なども聞かされていた。

また、不妊治療はかなりの頻度で病院へ行かなければならないと聞いた。当時、私は体験取材や地方取材、海外取材も多く、仕事が忙しかった。しかも原稿料の振り込みも遅れがちだったりで、生活も収入も不安定だった。不妊治療どころではない。

この段階で治療を始めていれば、私の卵ももう少し若かっただろうに。悔やんでも仕方のないことだ。心にも懐にもそんな余裕はなかったのだから。このとき私は38歳。

そして、人生の転換期が訪れた。まず、新潮社の中瀬ゆかりさんから嬉しい依頼をいただいた。「週刊新潮でテレビコラムの連載をやらないか」ということだった。全裸で踊りまくりたいくらい、嬉しかった。定期的な収入が確保される連載はありがたいし、しかも週刊ということは毎週振り込まれるわけだ。これが人生の転換期その1だ。

転機その2は、彼が静岡の実家へ帰ったこと。実は、彼は車に轢かれて大怪我を負った。養生中に、彼の心の中にも転換期が訪れた。死についても考えたらしい。当たり所が悪ければ、死んでしまったかもしれない。いろいろなものが重なり、静岡の実家へ戻ることを決意したという。45歳で実家に戻り、家業を継ぐことにしたのだ。いずれ私も静岡へ移住しよう、と甘く考えていた。

ただし、仕事のほとんどが都内の取材で、時には地方や海外出張もあった。やはり基点は東京が有利であることは間違いない。テレビコラムという新規分野に戸惑いつつ、絵も描かなければいけないので、試行錯誤の日々。フォトショップなんて使ったことがなかったが、独学であれこれと学んだ。同時に、医療健康系や女性誌の仕事も続けた。結構忙しかったのだ。静岡へ移住という話は、徐々に、でも確実に私の中では薄れていった。

「子供が欲しい病」の再発

そんなときに、東日本大震災が起きた。2011年のあの日、幸運なことに、ちょうど彼が東京に来ていた。午後の新幹線で静岡に戻ろうとしていたとき、大きな揺れが襲った。

我が家はえらく揺れた。食器棚から食器が飛び出して割れた。本棚から本がすべて飛び出し、パソコンを直撃した。冷蔵庫も開いて缶ビールやらなにやらが飛び出した。私はちょうど原稿の締め切りを終えて、一息ついたところだったが、完全にパニック状態に。

何はともあれ、猫を守ろうと思った。猫も異常事態に、香箱を組んだまま固まっていた。本当に異様な状況だったが、彼は冷静かつ迅速に動き、割れたモノを踏まないよう私に指示を飛ばし、避難を誘導してくれた。パニック状態の猫を入れたキャリーケースを肩にかけた私は、なぜか冷蔵庫から落ちたビールを手に取っていた。

「それ、今、いらない!」

と彼に怒られた。そして家の外に出て、エレベーターのボタンを押した私に、

「違う! 危ない! 階段で逃げるんだよ!」

と彼。その後も、彼は的確な指示を出し、キャリーバッグを抱えて青ざめた私を寺の境内へと誘導した。携帯電話がまったく使えない状況で、テレホンカードを手渡し、

「とりあえず実家に電話して安否を確認して!」

という。なんて頼もしいんだ! しかもテレカを今どき常備してるなんて! 揺れが収まった後も、テキパキと動き、家の中の片づけをしてくれた。完全に惚れ直した。「ああ、この男と一生一緒にいたい」と思う前に、なぜか

「ああ、この男の子供が欲しい」

という気持ちが改めて体の底から湧いてきたのだった。

いわゆる震災婚

震災後、彼はちょくちょく東京に来てくれた。有事の際に私がまったく使えない人間であることが露呈したからだ。寂しさと不安もあって、眠れない日もあった。そこで、また私の悪い癖、「子供が欲しい病」の再発である。しかも、症状はかなり強い。

まずはひとりで不妊治療専門のクリニックへ行き、39歳なのでスピード&効率優先主義であることを医師に伝えた。まだるっこしい検査をいくつも受けている時間的な余裕はないので、体外受精をしたいと。2回目は彼も一緒に行った。精子をとるためである。新幹線でやってきて、取精室なる個室にて、セルフで精子を絞り出す。その中から即座にイキのいいヤツだけが選ばれて、保存される。

ひとまずそこで男性側の任務は終了である。つくづく思う。いいよなぁ。痛いとか面倒くさいとかツライがないんだから。女性は、まず性感染症などの検査を受け、妊娠に適しているかどうかを調べた後、排卵日を待たねばならない。そして、排卵日に卵子をとるために地獄の通院が始まる。こまめに血液検査を受けてエストロゲンなどのホルモン値を計り、採卵に向けて準備態勢をとる。

実はそこにふたつの障壁があった。ひとつめは、なんとクラミジアに感染していたことが発覚したのだ。思い当たるフシはある。私にも彼にも。こまめに婦人科検診を受けていたのに。と、書くとまるで彼が感染源かのように思われてしまうではないか。彼の名誉のためにも、記しておく。婦人科で内診は受けていたが、性感染症の検査をオプションで受けていなかったのである。だから、私が持っていた可能性が高い。

そして、私が行ったクリニックでは、体外受精に関して、入籍が必須条件だった。知らなかった……。籍を入れていなくてもOKな病院はたくさんあると聞いていたのに。あれはセレブや有名人に限った話だったのか。体外受精の前に、まずはクラミジア治療と入籍が必要だったのだ。

ブームに乗っかったつもりはないが、いわゆる震災婚だ。ただし、正統派の震災婚ではない。不妊治療を開始して、必要に駆られて入籍したのだ。しかも慌てて入籍。

不妊治療、始めました

こんな状況なので、結婚式も挙げず、パーティなども一切やらず。私は初婚ではないので、結婚式に関しての感慨も感動も要望も一切ない。彼は初婚なのだが、同様だった。

ただし、義親はかなり違和感を持っていたと思う。一人息子の初めての結婚なのに、一切何もやらないということが、保守的な地方都市においてどれだけ異例なことか。私の親は、私の再婚に一切興味がないので(1回目のときは、かなりうるさかったが)、本人たちの意志に任せるという。

正直、私はそれどころじゃなかった。仕事をしながら、5日に1回、下手したら毎日クリニックに通いながら、そして、高額な治療費を自分で稼がなければいけない。私自身は目的のために合理的に動きたかった。世間体に合わせる気はさらさらない。無理をすれば、必ず破綻する。それが幸せだとは思っていないし、思えない。その結果、別居婚というスタイルに落ち着いたのだ。

あの頃の私は、世間体とか慣習とか儀式とか、もうどうでもよかった。テレビで巨大な津波に飲みこまれていった町を、そして、爆発と目に見えない汚染で人間が入れなくなった町を見て、何が大切なのかを悟った。命だった。自分の命であり、彼の命であり、自分と彼の間に生まれてきて欲しい命だ。

そのために、最も効率よく合理的に動くことを最優先した。それが体外受精である。かくして、私の不妊治療は始まった。

(吉田潮)

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