雑穀料理人・米山美穂さんインタビュー

「何があっても生きていけるという自信」激務のライターから里山の雑穀料理人になって

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「ライフ≒ワークな生き方」
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都心から約1時間半で到達する、里山の奥の奥。米山美穂(よねやま・みほ)さんは10年前、千葉県の鋸南町に家族で移住し、雑穀料理人として働きながら暮らしています。山とひとつながりの広い庭先では烏骨鶏の親子が歩き回り、日なたには犬が寝そべり、自然農の小さな畑があり、「ゆえん」のわかる素材で料理をする日々。そんな米山さんにとって「ライフ≒ワークな生きかた」とは?

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20代で“好き”を仕事にしたものの…

――今は雑穀料理人の美穂さんですが、移住前はどんな仕事をしていましたか?

米山美穂さん(以下、米山):文章を書くのが好きで、それを仕事にしようか迷いつつも「好きなことはお金の絡まない状態でやりたい」と思い、大学卒業後は大手企業に就職してSEをしていました。仕事は楽しかったですが、上司の保身が優先されたり、お弁当は部署の先輩たちと食べる暗黙のルールがあったり(笑)。大学時代に旅程を決めない長旅の面白さを知ってしまっていましたから、有給休暇をとることもままならない働き方が我慢できなくなって、結局2年ほどで辞めました。

―――見切るのが早いですね! 次の仕事は決まっていたのですか?

米山:旅行ガイドブックを作る編集プロダクションでライターとして働く話が来ていました。コーディネーターも通訳もいない中、撮影も執筆も編集も全部ひとりでこなすという仕事です。マンションの一室に社員3人、給料は3分の1、仕事は倍、でも旅はできる(笑)。そこで3年働いて独立し、ほどなく結婚しました。

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―――ライターの仕事はどれくらい続けましたか?

米山:7年ほどです。夢中になって働く多忙な日々で、そろそろ自分の興味に合わせた企画の本も出したいなあ、という思いも出てきていました。そんなある日、全身にひどい発疹が出たんです。皮膚科で「お薬を出しますが、妊娠している可能性は?」と聞かれ、「ありません」とキッパリ答えて帰ってきたら、夫から「いや、あるかもしれないぞ」と。調べたら妊娠してたんですね(笑)。

その後はつわりもなく幸せな妊婦生活でしたが、妊娠8ヵ月目に突然、髪が抜け始めました。妊娠中だからかなあ、とそのままにしていたら、みるみるうちに全身の毛が抜けてしまいました。

身体が発した強烈なサイン

―――それは驚きますね……原因は何だったのでしょう?

米山:医者には「汎発性脱毛症」と言われましたが、原因は不明です。それまでの私は、徹夜後も疲れは残らず、冷え性もないし、体調がいいと思っていました。でも、妊娠中にヨガの先生から「身体がずいぶん冷えていますね」と言われたことがあって。もしかして、私は身体の声を完全無視していただけかもしれない……と気がついたんです。出産にあたり、「おまえにはこれくらいやらないと、気づかないだろ!」と、身体が強烈なサインを出したんでしょうね(笑)。

髪については、それ以上気にしませんでした。子育てが楽しくて、それどころではなかったんです。毎日狭い部屋で子どもといるだけなのに、世界旅行に匹敵する感動がある日々でしたから。

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―――お子さんができてからは、どんな仕事をしていましたか?

米山:出産時の身体の変化をきっかけに、東洋医学や食べるものについて関心が生まれて、マクロビオティックの発祥校「リマクッキングスクール」に通い出しました。師範科コースまで進み、自分で料理教室を開くようにもなりました。雑穀料理中心の食事をすることで、自分の身体としげしげと向き合ってみる楽しさもわかってきて。たとえば以前は、頭痛が出たらすぐ薬で抑えていました。でも、本来身体には、自分で治ろうとする力がある。生きようとする力がある。それをフォローする方向で働きかけるために、必然的に身体の声を聴くようになりました。

―――身体の声を聴けるような、ゆとりのある暮らし方ができればいいのですが……。

米山:もちろん、ここぞという時に万全の状態で臨む場合、薬は助けになります。ただ、いつも薬に頼ると、身体は怠けることを覚えてしまいます。そういえば、肌の手入れもほとんどしなくなりましたね。だってよく考えたら、何もつけていない夫の肌がツヤツヤなんだもの(笑)。油分を補ってあげないと、肌の方がヤバイ!と思ってみずから油を出してくるみたい。

2年の準備期間を経て移住

―――ここ、鋸南町の里山に移住してきたのはなぜでしょうか?

米山:都会では、大きな声を出したり、走り回ったりといった行動が制限されることが多く、「ここで子育てをする自信はないなあ」と。子どもが3歳の時にたまたま房総半島を訪れて、海も山もある環境に惹かれ、2年ほどの準備期間を経て越してきました。山奥の敷地にあった小さなつくりかけのログハウスを完成させて仮住まいをし、その後ハーフビルドでこの家をつくりました。

竹小舞の壁も自分たちでつくった。塗りこめるのがしのびなく、上は透いたままに。

竹小舞の壁も自分たちでつくった。塗りこめるのがしのびなく、上は透いたままに。

―――今は、どんな仕事をしているのですか?

米山:雑穀料理人として、鋸南の自宅や新宿のリマクッキングスクールで雑穀料理を教えています。その合間に、「るんたの里山ごはん」を自宅でお出しする予約制レストランをしたり、コミュニティ・マーケット「awanova」の運営、イベントへの出店、ケータリングなどを手がけています。

料理人になるなんて、10年前には考えてもいませんでした。料理こそ私の天職!と思っているわけではなく、伝え方の一つとして“料理”という手段を選んでいるという感じです。

穀物と、地元の新鮮な野菜を使った里山ごはん。調味料も自家製。

穀物と、地元の新鮮な野菜を使った里山ごはん。調味料も自家製。

―――田舎暮らしで得たものは、何でしょうか?

米山:何があっても生きていけるだろう、という安心感ですね。移住のタイミングで電気製品をいろいろ処分し、生活はシンプルになっています。小さいですが裏山があり、そこには暮らせる資源がある。それを使いこなすのが、本来の文化なのだと思いますね。

80代のおじいちゃんに聞くと、「自分のわらじは自分で編んでいたよ」と言います。つい60年前までは米をつくり、畑をつくり、集落の中に糸を紡ぐ人、染物をする人もいて、行商の人と物々交換をして、お金を使わないでも暮らせていたということ。

つまり今の常識は、たかだか60年の常識です。それを大前提に据えて、「これが必須!」「ないと困る」と人々の不安を煽ることで、さまざまな商売が成り立っていますよね。その渦の中に身を置かない心地よさを、知ってしまったという感じです。

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【米山美穂さんのプロフィール】
妊娠・出産を機に自分の体と向き合い、穀物菜食、自然農を学び始める。2007年春に、東京から安房の里山へ移住。自然とつながった農的暮らしの場「るんた」を営みつつ、野菜と雑穀の料理教室、イベント出店、ケータリング、月1回のコミュニティマーケットawanova
の運営などを行っている。雑穀エキスパート。HP:るんたのにわ

(馬場未織)

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激務の通勤生活、今年で何年目? ふと気づけば、プライベートの暮らしは仕事に押しつぶされてぺちゃんこに。何のために頑張っているのかわからなくなることさえありますよね。「いつまでこんななんだろう」「働き方を変えたい」「でも方法が分からない」この連載では、そんな悩みや迷いをえいやっ!と乗り越えて、“ライフ”に“ワーク”をぐんと引き寄せてしまった彼女たちに話を伺います。

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