DJあおいさんと「仕事がデキること」について考えていく連載「私は仕事ができない。」54回目のボヤきは「仕事相手に優先順位をつけることに罪悪感」です。
【今週のボヤき】
外部の人とメールをやり取りしたり、仕事をしたりするときに優先順位をつけてしまう自分に罪悪感を覚えます。「この相手には失礼のないよう細心の注意を払って」とか「この人なら返事がちょっと遅くなっても大丈夫かな」とか無意識のうちに判断してしまっていると思います。
尊敬の念を持って平等に接しないといけないとは思うのですが、ふと気の緩みのようなものが出てしまっている気がします。
相手を見下したり、軽く扱ったりしている人を見ると軽蔑をしてしまうのですが、自分もあからさまにやっていないだけで、無意識の中ではやっているのかと思うとそんなに変わらないのかなと思い、落ち込みます。
人によって態度を変えるのは当たり前
人によって態度を変えることを嫌う人がよくいるのですが、人によって態度を変えるのは当たり前なことですよ。
ただしそれは差別ではなく区別でなければなりません。
区別とは合理的な差の認識です、仕事や私生活を合理的に進めるために優先順位を決めるのは当たり前なこと。
急を要する業務があるのなら私生活を後回しにするのが合理的、急を要する私生活があるのなら業務を後回しにする(もしくは誰かに頼む)のが合理的。
先にやるべき仕事と後回しにしていい仕事を分けるのも合理的。
優先順位はその都度その状況の合理によって変わりますが、トータルで見れば平等な扱いになるんです。
人によって態度を変えるのも、その人に心地良く感じる態度を区別して差し出しているだけ。
お得意様相手に馴れ馴れしい態度では不快感を与えてしまうでしょう、仲の良い友達にかしこまった態度で接したら猜疑心を与えてしまうでしょう。
人によって態度は変えてもそれは一貫して「相手にとって気持ちのいい態度を差し出す」という合理があるわけです。
その観点から見れば相手によって態度を変えるのも平等なんですよ。
「区別」と「差別」の違いは…?
差別というものは非合理的な差の認識です。
簡単に言えば合理性のないただの個人的な好き嫌い。
「こいつは嫌いだから後回し、この人は好きだから最優先」という優先順位の付け方は合理性のないものなので区別ではなく差別になります。
個人的な好き嫌いという非合理な理由で優先順位をつけているだけなのでその場の状況に左右されません、一貫して好きな人は最優先、嫌いな人は後回しなので不平等な扱いになってしまいますね。
人によって態度を変えるのも、好きな人には相手にとって気持ちのいい態度を差し出し嫌いな人には相手にとって不快な態度を差し出すのでそこに合理性はありません、よって不平等になってしまうんです。
大事なのはそこに合理性があるかどうか。
それさえあればべつに恥じることはありませんよ。
それは大人にとってなければならない能力ですからね。