女社長、乳がん宣告を受ける
この日もここ(とある国立病院の乳腺科外来)は不安な顔をした女性たちでいっぱいだった。芸能人の乳がんカミングアウトが続いたからか、少しでも「あれ?」としこりめいたものを見つけた女性達は今、以前よりフットワーク軽く検診に足を運ぶらしい。混みまくっているのは不便極まりないが、女性全体にとって「すぐに検診!」は良い流れと言えるだろう。
ここに来るのは先週とこの日で2回目だが、前回同様14時の予約で16時になってもお声が掛からない。後ろにアポを入れなかった私の、ビジネスマンとしての勘を心から褒めてあげたくなる。暇すぎて。
それにしても気が遠くなるほど待ち時間が長い。仕方なく、がんか否かの検査結果を待ってくれている友人に「この待ち時間のせいでがんになりそうです。」という不謹慎なLINEを送って溜飲を下げたりする。
そもそもここに来ることになった経緯だが、
9月中旬 呑気(のんき)に家族旅行に出かける。
9月末 人間ドックへ行きマンモグラフィーとエコー検査を受けて発覚。しこりが良性か悪性かの検査が必要と言われ、生体針検診が可能な国立病院への紹介状を書いてもらう。
10月初旬 紹介された「比較的自宅に近い」「乳がん手術で有名」な国立病院へ。再びマンモとエコーの検査を受け、右おっぱいに細胞を採取する注射をブスブスブスと3本お見舞いされる。
そしてこの日はその検査結果を聞きに来た、というわけだ。
本来ならば、丁か半か「ドキドキの判決日」である。
しかし、前回病院に来た時、マンモのデータを見たり、エコーを操りながら目を凝らしたりする先生の、所作や間を一挙手一投足観察していた私は8割方、自分は乳がんであるという当たりを付けていた。
なのでこの1週間、乳がんサバイバーの友人に相談したり、乳がんの本を読み返したり、ネットで調べたりして、自分なりの治療方針(あくまでも素人の希望)を勝手に妄想し、準備OK状態で臨んだのだった。
女社長、考える「一番大事なのは命、次に大事なのは…」
私が勝手に決めた優先順位としては、二人の子供もまだ小さいことだし当然に「命」が第一で、第二にはやはり「仕事と両立できるかどうか」である。家族を食べさせていかなきゃいけないこともあるし、何より11月以降に入っている仕事でキャンセルが不可能なものもある。
髪が抜けても、おっぱいもリンパも切っていいから、抗がん剤治療だけは「仕事との両立が厳しそうに思えた」ので、できることならば避けたかった。それでも、抗がん剤治療を拒否した女優が死亡したニュースはまだ記憶に新しい。
何が決定打かは分からないが、前例がある限り家族は心配するだろうし、命と引き換えならば抗がん剤も仕事のお休みも受け入れなければならないだろう。
診察室から、告知を受けたであろう20代後半とおぼしき女性が、泣きながら出てきたのが見える。看護師に支えられ、憔悴しきっている彼女だって、きっと家族がいて仕事があるのだ。私よりずっと若い分、がんの出現した場所が場所だけに、女性としても、悩みは多岐にわたって深いだろう。
どうか、彼女のがんが重いものでありませんように。前向きに治療に取り組めますように。
勝手にシンパシーを感じながら、時計を見たらすでに17時近くなっており、私はやっと名前を呼ばれた。
そして、がん告知を受けた。
女社長、交渉する
先生は淡々と、小葉がんという比較的珍しい乳がんであること、はっきりした転移やステージは手術をしてみないと分からないこと、抗がん剤が効きづらい種類であること、摘出すれば予後は良いと言われているがんであること、ただ、多発的に転移しやすいこと、通常見つかりづらいがんであることなどを説明してくれた。
そんなレアながんにかかっていたとは! 比較的早期発見であったことが救いである。そもそも、がんが発覚したきっかけは、9月頃から次女が右おっぱいに突然執着しだして、寝る前におっぱいを吸って入眠するようになったことだ。
がんの特徴としてよく言われるような触っても動かないしこり。私のおっぱいはスリムであるがゆえ(貧乳とも言う)、しこりはできた途端すぐ分かった。だから、病院嫌いなのに検査に行ったのだ。貧乳がこんなところで役に立つとは……。人生は何が功を成すか解らないものである。
先生は多少言いづらそうに、温存(がんを部分的に取って乳房を残す手術)と全摘(がんのある乳房をすべて摘出すること)のメリット・デメリットなどを、要は「温存でもいいけど、全摘出のほうが再発率が低いですよ」という説得トークを、慎重にし始めた。
先生のお気遣いは大変ありがたかったが、そもそも「抗がん剤治療なし」で「切って済む」のであれば我がおっぱいに未練なしの私である。
聞けば、切ったその場で乳房再建の事前処置をやってくれるとのこと。先生の説得を半ばさえぎるように、「切ります! 切ります!」「全摘ってことで!」と、交渉成立。威勢の良い競りのように手術方針がさくっと決まった。
「ついでに、元のおっぱいより大きくするとかっていうのは難しいですか?」と、あくまでも「ついでに」聞いてみたが、「健常な左乳房に合わせるので無理です」と、真顔できっぱり返される。こちらは交渉不成立。
その後、知り合いの医者にメールでセカンドオピニオン的に相談したり、手術に耐えうる体かどうかの検査を流れ作業でこなしたりしながら、約2週間後の右乳房全摘出&同時再建手術に備えることになるのだった。
女社長、ヘビー級の腹式呼吸をする
しかし、覚悟していたとはいえ告知を受けた直後は、病院のレセプションで一人うなだれたものだ。
がんを告知された人は大抵、「なんで私が?」と思うらしい。私の知り合いのがん患者たちも、「どうしてこの人が!」と思う人ばかりだったし、ほとんどの罹患者が突然訪れたがん宣告に運命を呪う権利があるように思う。
が、私は違う。
私以外では、酒が主食だった実の父親(食道がんで死亡)と同じく叔父(肝硬変で死亡)、同じく叔母(乳がん、存命)ぐらいしか思い当たらないが、「そら、がんにもなるわ!」と世間に太鼓判を押されてしまう種族の一員、それが私だ。
おまけに私は、運動全般や健康に良いと言われていることを、ことごとく毛嫌いしてきたし、休息をとることものんびりすることも苦手で、生活が安定してきたと思うと新たなストレスを自分に投下するという妙な性癖まで持っていた。
乳がん発生の原因は諸説あるので断言できないが、私がガン細胞であっても、私に住まうという腹落ち。その自業自得っぷりに、しばし打ちのめされるのだった。
そして、自業自得とはいえ「またやっかいなことになった」という諦めにも似た何かに、それでも確実に立ち向かわなければならないがんという病に、人生で定期的にやってくる荒行に対し、自分でもびっくりするような大きな大きなため息が出た。まるで、ため息ついてられるのは今しかないと確信しているかのような、ヘビー級の腹式呼吸。
しかし、いつまでもここで下を向いて腹式呼吸しているわけにはいかない。何せ、この後やらなければいけないことは山積みなのだった。
11月6日から手術と入院で二週間空けるとなると、仕事のスケジュール変更、仕事関係者への延期やフォローのお願い、執筆やアポイントの前倒し、家族への告知、そして、私がいない間の家庭運営のための手配、保険やお金関係の調べものや整理、その間にも2度ほど病院に来て、診察や検査があるらしい……。思いつくだけでも無事に手術日を迎えられる気がしない。
女社長、立ち上がる
時計を見ると18時を過ぎていた。家で“ばーば”(実母)が心配しているだろうし、子供たちがお腹を空かせているはずだ。
私は会計を済ませるために立ち上がる。
「立たなきゃ」と、思ったからだが、立ち上がってしまうといつもの癖で私は胸を張ってしまう。いつもの癖で威圧的なほど姿勢を伸ばしてしまう。そして、いつもの癖で顎を前に突き出して視界の全てを鼻越しに眺めてしまったが、なんだかうなだれていた時と気分が変わってきて、やらなければならない全てがまるで、「乳がんプロジェクト」と命名して実行すれば良い気がしてくるから不思議だ。単細胞万歳。
「かつて、私は人生で何度も、ヘビーなプロジェクトに立ち向かってきたはずだ」と、内耳が私にささやく。
「よし! 今日はもう遅いから外食にしよう!」と、店の予約をしながら、私はバタバタと病院を後にした。