今年、久しぶりに実家に帰省しようと思うのですが、両親に会うのが憂鬱(ゆううつ)です。30代半ばで親が健在なのは恵まれていることとは思うのですが、いろんなことがありながらもここまで育ててくれた親が弱っていくのを見るのがつらくてしょうがないです。母はどんなときもきっちりお化粧して「◯○ちゃん(私)のお母さん、きれいだね」と友達の間で評判だったのですが、帰省するたびに老けていくのを見るとなんとも言えない気持ちになります。おそらく私の中での「完璧な母親像」があって、それが壊されるのがつらいんだと思います。身勝手ではあるのですが、なかなか親の老いを受け入れられない自分に戸惑っています。
「親の死は親が教える最後の教育」
親と同居している人は毎日顔を合わせていることもあって、親が老いていくという感覚はあまりないのかもしれませんが、上京して仕事をしていたり、結婚をして違う土地に嫁いでしまっていたりすると、GWと盆と正月、または年に一回、生活環境によっては数年に一回しか帰省できないという人も珍しくはありませんから、そんな境遇にいると親の老いていくさまが痛いほどわかってしまうんですよね。
ベクトルは逆かもしれませんが、ちょっとご無沙汰してしまった友人の子どもがいつの間にか幼稚園児になっていたような驚きと似たような感覚を覚えてしまいます。
「親の死は親が教える最後の教育」という言葉がありますが、親の老化も同じようなものなんですかね?
目をそらしたい現実だけど、目をそらしてはいけない現実のような、認めたくはないけど、認めなければならないような、人としてネクストステージへ行くための避けては通れない大切な通過儀礼のような気がします。
親が老いていく姿を見るのはつらいけれど…
私の両親はすでに他界していますが、その経験があって初めてこの世で自立できたと今なら言えるでしょう。
支えてもらう側から支えてあげる側へ、与えてもらう側から与えてあげる側へ、そして残される側から残していく側へ。
「あー、大人になるってこういうことなんだな」ということを、理屈ではなく肌で実感できるようになったのは、親の老いと死に学んだからなのかもしれません。
親が老いていく姿を見ること、そして最期を見届けることはつらいことなのかもしれませんが、その姿から人の在り方を学び、命というものを学んでいるので、決して目をそらさないようにしてあげてください。
もし不老不死の薬があったとして、人が老いることも死ぬこともなくなってしまったら、私たちは人を愛することができなくなってしまうかもしれません。
老いるからこそ、いつか死んでしまうからこそ、人は美しく愛(いと)おしい生き物なのではないでしょうか。
親の姿はいつか通る自分の道よ。
私たちもいつか老いて必ず死ぬ身なのですから、ぜひともその命の授業はしっかりと受けて、自分の命を輝かせてください。