「フェミニスト/クィア批評の『楽しさ』を読みとく」後編

“余白”が解釈の多様性を作る 『スター・ウォーズ』が愛される理由【北村紗衣×森山至貴】

“余白”が解釈の多様性を作る 『スター・ウォーズ』が愛される理由【北村紗衣×森山至貴】

年末年始のまとまった時間を利用して、小説や映画、演劇を楽しもうと思っている人や「これまでとは違った見方で作品を鑑賞したい」と思っている人も少なくないのでは?

このほど、シェイクスピア研究、フェミニスト批評で知られる北村紗衣(きたむら・さえ)さんの新刊『批評の教室―チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書)の刊行を記念して、社会学者の森山至貴(もりやま・のりたか)さんを招いたオンライントークイベント「フェミニスト/クィア批評の『楽しさ』を読みとく」が「本屋 B&B」(東京都世田谷区)で開催されました。

作品の楽しみ方を語り合った前編に引き続き、イベントの内容をお届けします。

※イベント内容をウートピ編集部が一部抜粋・編集しています。

イベントに登場した森山至貴さん(上)と北村紗衣さん

イベントに登場した森山至貴さん(上)と北村紗衣さん

余白を埋めるのも批評の楽しみの一つ

森山至貴さん(以下、森山):人と語り合いたいときにおすすめの映画があれば、ぜひお聞きしたいのですが。

北村紗衣さん(以下、北村):映画だったら『カサブランカ』が感想戦に向いていると思います。ウンベルト・エーコが「『カサブランカ』は究極のカルト映画だ」みたいなことを言っていますが、私もそうだと思います。細かいセリフとか脇役のキャラクターとか、ツッコめるところが山ほどあるんですね。そういう映画は語り合いやすいのかなと思います。

森山:ツッコミどころがある映画とか小説って、愛さずにはいられない感覚がありますよね。「ここはダメでしょ」って思ってるんだけど、一方で「この作品すごく好きだ」っていう複雑で面白い感情というか。ある意味、コンテンツに触れることの快楽の大きな部分は、そういう感情で占められているという気がします。

北村:例えば、『スター・ウォーズ』にあれだけ多くのファンがいるのは、「隙間が大き過ぎるから」だという話がありまして。つまり、説明されていない部分が多いんですね。そこを、ファンが主体的に埋めていくことで、ファンダムがどんどん発達したという要素があるんです。『カサブランカ』も、まさにそういう映画です。だから、必ずしも「スカスカだと出来が悪い」ということではなく、説明不足の要素がたくさんあるほうが、カルトコミュニティができやすいんじゃないかと言われています。

森山:村上春樹とかもそうでしょうか?

北村:そうかもしれないですね。ほかにも、『シャーロック・ホームズ』とかだと、長いスパンで一人の作家が書いているので、最初の作品から急に設定が変わったりすることがあって。おそらくただのチェックミスなんですけど、どうやったらつじつまが合うのかを一生懸命考えるところが面白いんだみたいなところがあります。

このように、余白をきちんと考えられるという点では、批評する能力と通じる部分があると思います。「そういうものは批評じゃない」と言われることもありますが、私は、説明不足のところや余白を埋める作業も一種の批評だと思っていますし、作品を楽しんで熟読する能力とつながってるんじゃないかなと思います。

森山:作品によっては、「余白を埋めろ」というメッセージが聞こえてくることもありますもんね。カズオ・イシグロの『日の名残り』とか。隙間とか、場合によっては欠点があるということに向き合いながら、作品を楽しむという。

北村:そうですね。やっぱり、完璧な作品はないと思うので。カズオ・イシグロみたいにわざと余白を作りたがる作家もいますが、偶然できたにせよ、計算されて作られたにせよ、余白というのは私たちが自由に遊んでいい場所。フリースペースとして残されているわけなので、いくらでもそこで遊んでいいんです。それが、解釈の多様性を作っているんだろうなと思います。

作品の価値づけが分からないときは…

森山:もう一つ、学生に教えている立場として、作品の価値づけについても伺いたいです。

北村:よくあるのは、時代が違いすぎて背景が分からず、「何でこの作品が面白いのか、全然分からない」「価値があるとみんなに言われている作品の価値が分からない」ということだと思うんです。そういうときは、「この当時の人にとってはこういう価値があった」「話は面白くないけど、文体的にはこういう価値がある」みたいに、見方によって価値づけが変更されるということを話しています。

例えば、時代遅れなところがある小説や映画がありますよね。今の技術だと簡単にできることをすごい苦労してやって、しかもあんまりうまくいってない映画とかあるじゃないですか。でも、そういう作品でも、出たときは斬新だったし、いろいろな作品を見てもう一度その作品を見てみると、「この時代にこんなことをやっていたのはすごいことなんだな」と思ったりすることもあるので。そういうふうに、教育の現場で批評をするときには、価値の話は大事かなと思っています。

型を理解していないと、型破りなことはできない

森山:今日は北村さんに、クィア映画についてもお聞きしたいと思っていて。最近、印象に残ったクィア映画はありますか?

北村:セリーヌ・シアマ監督の旧作『トムボーイ』が、最近やっと公開されたのですが、すごく批評が書きにくい作品なんですよ。というのも、主人公が子供なんですが、引っ越し先で周りの子供たちに男の子の名前を名乗っているけど、家では女の子の名前で呼ばれていて。これは、何の予備知識も入れずに見ると、この子のアイデンティティーはトランスジェンダーの男の子なのか、女の子が男の子のフリをしているのか、あるいはノンバイナリージェンダーの子なのか、全然分からないんです。

やっぱり、アイデンティティーが一つの言葉で言えないような子供とかが出てくるクィア映画は、批評しにくいですね。名指しで挙げるだけで間違っているような感じがしたり、暴力的な感じがするから、書くのがとても難しい。とはいえ、子供の頃によくあることを描いているんだろうなと思うので、批評を書かざるを得ないみたいなところもあり……。そういう映画は、批評を書きづらいんですけど、見ていて刺激的だし、すごく面白いんじゃないかなと思います。

森山:クィア映画批評って、主人公の隠れたジェンダーやセクシュアリティに関する隙間を埋める作業だったじゃないですか。多くの人が異性愛者だと勝手に想定していた登場人物が、「実は同性愛者なんじゃないの?」という積極的な読みを提示するみたいな。余白の部分に、逸脱的とされる何かをはめ込むみたいな作業があると思うんですけど。今の北村さんのお話だと、逸脱的なものを勝手にはめ込むこと自体が暴力的だよねということですね。

北村:そうですね。『トムボーイ』は、どの逸脱に当てはまるのか全然分からないという感じの映画でした。

森山:観客が、「この人はゲイだ」「この人はトランス」だということを発見したら終わりになる映画を撮っているわけじゃないということが、あからさまに提示されているという。これまでのクィア批評を経由した映画という感じがしますね。

北村:以前、金沢大学の久保豊さんが研究会で、「昔だったらレズビアンとかゲイだって判断していた登場人物を、今の学生に見せると『アセクシャルの人ですよね?』という感想が出てくる」とお話されていて。ヘテロセクシャルやシスジェンダー以外の人を指す言葉がだんだん増えていて、自分たちで「これを指すのにふさわしい言葉は何か」ということを考えることが多くなってきているのかなと。言語が増えることで解像度が上がって余計複雑になるという見方が、最近はあるんだなと感じました。

森山:それは面白いエピソードですね。最近、ゼミの学生と話題になったことがあって。多様な性の在り方にまったく造詣がないのに、「私はトランスとか同性愛とか、そういう単語でくくれないようなリアリティーを描こうとしてるんです」と言って、そういう単語を一切使わないで映画を撮ったり、小説を書いたりするんだけど、内容は誤解に満ちていて、もちろん偏見も混ざっていたりして。「名指すことの暴力性を回避してるんです」ということが、ちゃんとしていないことの言い訳になっている。最近のクィア批評を、悪い意味で経由しちゃってる作品もあるのかなと感じています。

北村:確かに、「名指せないものを描こう」ということも大事ですが、それこそ型を理解していないと、型破りなことはできませんからね。例えば、同性愛のカップルを描くときに、「愛は性別を超越してるから」と雑にまとめちゃった感じとか。やっぱりそれは、型を学ばずに独創性が高くないものを生み出しているだけだと思うので、型から外れたことをやるには、きちんと型を理解してからやらないと、よく分からないものになりやすいということだと思います。

森山:「型を理解してないからつまらない」「作品として質が悪い」と言われると同時に、その作品自体が差別的内容になってしまう場合もありますしね。

うっかり言ってしまったこともよく考えてほしい

森山:ここで、北村さんに、「学生の授業コメントやレポートで、人種差別や性差別を含むものがあった場合、どのように指導されていますか?」という参加者からの質問にお答えいただきたいのですが。

北村:たまにレポートとかで差別的なコメントが見受けられると、その学生に、「この社会において人種差別や性差別があることを指摘したのですか? それとも、本当にあなたはこう思っていますか?」と質問しています。人によっては、社会に差別があるということを書きたいのに文章力不足で差別的に読めるようなことを書いてしまったり、あるいは、最初は差別的なことを書いていても、議論しているうちに「社会にそういう問題があることを、私は指摘したかったのではないだろうか?」と気づくこともあるので。

ただ、問題は「差別は悪いことだ」と頭では分かっていても、差別発言をしちゃってる人もいる。そういう人に指摘をすると、怒られたと思って謝ってくるんですよ。そうではなくて、自分の中に差別する気持ちがあって、それがうっかり文章に表れたときには、「社会に差別があるということを深く認識するまで考えてほしい」と伝えるようにしています。

森山:それはある意味、批評における重要なポイントというか。「あなたが思っていることと、実態としてどうなっているのかということを分けて書きなさい」みたいな。差別は良くないという価値判断を表明すること自体に意味があるんだけど、文章力不足で、単純な事実と事実に対する自分の判断がすごく混み入った形で文章になってしまうことはありますよね。すごく好意的に読み込んであげると差別じゃないんだけど、「ここはどうだろう?」みたいな微妙な文章もたくさんあって。これは教員にとっても難しいところですよね。

北村:武蔵大学は、割とおとなしめの学生さんが多い印象で。授業コメントとかで、意味がよく分からないことを言った学生に、「え? それはどういうこと?」と聞くと、萎縮しちゃってそれ以上答えなくなることがあるんです。それがちょっと怖いなと思っていて。うっかり変なことや意味が通らないことを言ってしまったら、その発言についてよく考えてほしいんですよ。何も考えずに反省するのではなく、よく考えて洗練されたロジックで考えを説明できるようにしてほしい。あまり恐縮しないで、よく考えるということを心掛けてほしいなと思ってます。

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