年末年始のまとまった時間を利用して、小説や映画、演劇を楽しもうと思っている人や「これまでとは違った見方で作品を鑑賞したい」と思っている人も少なくないのでは?
このほど、シェイクスピア研究、フェミニスト批評で知られる北村紗衣(きたむら・さえ)さんの新刊『批評の教室―チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書)の刊行を記念して、社会学者の森山至貴(もりやま・のりたか)さんを招いたオンライントークイベント「フェミニスト/クィア批評の『楽しさ』を読みとく」が「本屋 B&B」(東京都世田谷区)で開催されました。
北村さんと森山さんは、東京大学大学院時代からの同窓。そして、北村さんは武蔵大学准教授、森山さんは早稲田大学准教授という教育者でもあります。そんな2人が、批評の方法論をはじめ、映画や演劇の楽しみ方、教育現場のエピソードなど、約2時間にわたって熱く語り合った内容を一部編集してお届けします。
読んで「批評をやってみたい!」と思った
北村紗衣さん(以下、北村):『批評の教室―チョウのように読み、ハチのように書く』の著者である北村紗衣と申します。普段は、武蔵大学でシェイクスピアを教えております。よろしくお願いします。
森山至貴さん(以下、森山):森山至貴と申します。今回は、北村さんの対談のお相手ということで、いくつか共通点があって選ばれたのかな? と思っていて。実は、私もちくま新書から『LGBTを読みとく―クィア・スタディーズ入門』という本を出していて。“レーベルメイト”と言っていいのか分かりませんが、そういうご縁があります。それと、北村さんとは結構長いお付き合いがあるのでここに召喚されたのかな? と思っています。
北村:初めてお会いしたのは、2007年ごろですよね? たまたまどちらも東京大学にいて。私は表象文化論、森山さんは相関社会科学という別々のコースだったんですけど、英語の授業の手伝いをするTA(ティーチングアシスタント)スタッフとしてお会いしたのがきっかけです。
森山:そうですね。早速ですが、本の話をしていけたらなと思います。ここにいらっしゃっている方と同じ感想だと思うんですけど、すごく読みやすくて面白かったです。これは、“批評の教室”として本当に素晴らしい優れたところだと思うんですけど、読んだ後に「批評をやってみたい」って思ったんですよ。“○○の教室”という本はたくさんありますが、この本は「やってみたい」「できそうだな」と思わせる感じがあって、すごく良かったです。私は社会学者なので、普段は批評とか全然やらないんですけど、「批評をやってみたい」という欲が今、沸々と湧いています(笑)。
もう一つの感想としては、このイベントに際して、過去の北村さんの本を2冊読みました。博士論文を元にした『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社)とウェジーの連載を元にした『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)を刊行順に読んでいって『批評の教室』にたどり着くようにしたのですが、すごくつながっているなと思ったのが読んでいて楽しかったところでした。
『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』は、シェイクスピアを読んだ女性が何を書き残したか、それを通じてどう交流してファンダムが立ち上がったのかが書かれていますが、それとつながる立場ですよね。
北村さんは「他の人の批評とぶつかったり、重なったりしながら、そこに一定の楽しみの塊が生み出されていく」ことを、すごく大事にしてらっしゃる方で。『批評の教室』でも、第4章で「コミュニティを作る」と書かれていますが、批評を書いて人と見せ合ったり、読み合ったりすることに、すごく重きを置いていることが分かる。そういう内容を書こうと思うのは、とても北村さんらしいなと思いました。
作品や芸術を媒介にして人とつながる
北村:ありがとうございます。森山さんはご存じだと思いますが、私は全然コミュニティにいられないタイプの人間なんですよ(笑)。そんなに友人が多くないし、付き合いやすいタイプではないと思うのですが……。でも、友人ができない人が何を媒介に友人になるかというと、作品とか芸術なんですね。人付き合いがうまくない人でも、作品や芸術を媒介にして人とつながったりするんです。
コミュニティを作って、ネットワークができるだけで、社会的にも政治的にも芸術的にも、さまざまなものが生まれてくる。博士論文を基にした『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち―近世の観劇と読書―』(白水社)も、『批評の教室』も、そんなことを念頭に置いて書いた本ではありますね。実は、最初に博士論文を書き始めたときは、コミュニティのことを書くとはまったく思ってなくて。スタンリー・フィッシュの解釈共同体論をやっていて、ほかにもコミュニティ関係の研究書を読んでいたら、「私がやりたいのはこういうことなんじゃないかな」と思って、コミュニティのことを書きました。
森山:そうだったのですね。
北村:森山さんの最初の本『「ゲイコミュニティ」の社会学』(勁草書房)もコミュニティの本ですよね? 『LGBTを読みとく』もすごく良い本だと思ったので、クィア批評をやりたい学生に、「まずは批評じゃなくてこの本を読みなさい」と勧めています。『LGBTを読みとく』のように、今まで研究したことの集大成かつ簡単で学生が読める教科書を批評版でやりたいなと思ってこの本を書きました。廣野由美子先生の『批評理論入門―「フランケンシュタイン」解剖講義』(中公新書)と『LGBTを読み解く』を目標にして書いたので、森山さんにはいつも遠くからご指導していただいているような気がしています。
小説も映画も演劇も…一冊の本にまとめた理由
森山:『批評の教室』を読み終わって、「よく考えたらすごいな」と驚いたのは、小説と映画と演劇の批評を全部一人でやっていること。他の人が書くと、小説の批評の本、映画の批評の本、演劇の批評の本という感じでジャンル別になると思いますが、それがすべて一冊の本に入っている。だから、他の批評の本に比べて、読みたいと思う人が圧倒的に多いんじゃないかと思います。
北村:ありがとうございます。学生の教科書になることを想定すると、この形にしないと難しいと思ったところがあって。早稲田大学に比べると、武蔵大学はすごく小さいので、専門の先生が少ないんですね。小説の学生も映画の学生も、私が担当しなければならないので、いろいろなジャンルに対応しなくちゃいけない。みんなに読んでもらうために、小説も映画も演劇も網羅した内容にしたかったというのはあります。
加えて、私の担当は英米文化学科なので、基本的に地域研究なんです。そうすると、何となくイギリスに興味があるけど、小説が読みたいのか、映画が見たいのか、あるいは食文化に興味があるのか分からないような学生が新入生として入ってくる。そういう学生たちに、好きなことを決めて批評をしてもらうこともあるので、割と広い範囲をカバーしている本の方がいいのかなと思って。
森山:なるほど。そこは早稲田大学と大きく違うところかなと思います。早稲田は、演劇映像コースなどもありますし、「キャンパスの中で石を投げると、演劇か映像の研究者に当たる」と言えるくらいたくさんいますからね。実は私も、演劇鑑賞が好きなのですが、キャンパス内では「演劇を観るのが好きです」なんて怖くて言えません(笑)。でも確かに、教員としてどのくらいの範囲をカバーしなければいけないかというのは、本を書く上で大きなポイントになるかもしれないですね。
北村:本当は音楽やゲームに関しても、学生のために扱ったほうがいいと思うんですけど……。音楽は少し取り上げましたが、ゲームやスポーツは読み解き方が違ってくるので、なかなかカバーするのが難しくて。でも、他のジャンルの批評を書いている方もこの本を読んでくださっているようなので、そこはとてもうれしく思ってます。
森山:『批評の教室』では、美術の話もされていませんよね。そこは棲み分けなんだろうなと思いました。
北村:美術は文字情報が一切ないので、演劇や小説とは読み解き方がまったく違うんです。演劇だとセリフの情報があるので、いろいろ言えたりするのですが、美術は絵だけだったりするので。絵を観る能力は、物を読む能力とはまた養い方が違うと思います。
森山:参加者から、「マンガを取り上げなかったのも、美術と同じ理由ですか?」という質問が届いていますが。
北村:マンガやアニメーションに関しても、文章の評価とは違うので結構難しいですね。作画の評価は、すごく細かいところまで見てどこの絵がどうとか、文章を読む力とは違うものが必要になってくる。あるいは、舞台芸術のように人を実際に動かすようなこととは全然違う評価軸も必要ですよね。マンガやアニメーションは、美術と同じく、絵を巧みに見ることができる人がやるべきだと思っています。
見たあとに感想を話し合うのも楽しい
森山:参加者から「学生ではない場合、批評を読み合う場としてどういう場所が考えられるでしょうか?」という質問をいただきました。コミュニティの話にもつながると思うのですが、私もこの本を読んでいて「久々に読書会をしたいな」と感じました。
北村:学生の場合はゼミやサークルでお互いの批評を読み合ったりすることができますが、社会人の場合は読書会になりますよね。ミステリーだけとか、SFだけとか、とにかく長編を読むとか、さまざまな読書会がありますが、そういう場所で意見交換をして批評を書くみたいなことはできるんじゃないかなと思います。私も似たような質問をされたことがあって、やっぱり小さい解釈共同体というか、「批評を交換できる場所でコミュニケーションをしたい」という方が、思ったよりも多くいらっしゃると感じています。
森山:小説を読んだり、演劇を鑑賞したときに、「誰かと感想を語り合いたい」というプリミティブな欲求があるというか。私も昔は、必ず演劇は友人と一緒に見に行って、見終わったあとにカフェとかで感想戦をするのがすごく楽しかった思い出があるので。
北村:ただ今はコロナ禍で、友人と一緒に鑑賞することも少なくなって、感想戦をする機会がなかなかないですよね。みなさんやっぱり、「感想戦ができなくて寂しい」という気持ちがあるんだと思います。
森山:そうですよね。オンラインで感想戦をすることもできますが、同じ公演を見に行って、帰宅してからオンラインでというのもちょっと難しいですよね。
「あそこが全然分からなかった」も感想戦の楽しみの一つ
北村:感想戦って、「誰かと語り合いたい」という欲求だけじゃなく、「あそこが全然分からなかった」というのもあると思うんですよね。例えば、映画『TENET テネット』みたいに難しい作品だと、「分からなかったところを誰かに解決してほしい」「私の解釈が適切なのかどうか聞きたい」というのも感想戦の楽しみの一つです。作品を深く理解してより楽しむために、人と話すことは大事かなと思います。
森山:自分一人ですべての要素を拾うことができない場合、自分が拾った要素と相手が拾った要素をつなぎ合わせて一枚の絵を描くということですね。
北村:例えば、映画『マトリックス』も、画面の中の情報密度が高すぎて、一回見てもよく分からないという人が多かったんです。それで、「あのシーンはこうだったよね?」と人と話す文化が生まれて、大きいファンコミュニティができたらしい。映画だったら、画面の中の情報が多すぎるとか、小説だったら、トリックがいっぱいあって一回読んだだけじゃ分からないといった話のほうが、感想戦は盛り上がるんじゃないかなという気がします。
森山:「一つのコンテンツを、みんなでかみ砕きながら一緒に楽しんでいこう」というのが、理想的な感想戦のあり方なんですね。読書会や鑑賞会をやるときに、「どのような作品を選ぶと盛り上がるか」という参考になるかもしれない。ただ、感想戦で難しいのは、「私の解釈のほうが正しい」という批判の応酬になってしまうと、すごく疲弊するなと思っていて……。人とバトルにならないためのコツってありますか?
北村:複雑な話のほうが、人の話を受け入れやすいんじゃないかなと思っていて。みんなが分からない作品を選ぶといいかもしれませんね。私も、映画『TENET テネット』を見たときに、本当に分からなかったので、家に帰って10人くらいの批評を読み比べて、やっと分かるみたいな感じだったので。難しくて情報密度が高い作品だと、それぞれの着目点が違ったりするので、バトルになりにくいと思います。
森山:シェイクスピアの作品も、読書会に向いていると思いますか?
北村:私はシェイクスピアを学生に教えるときに、「ここのリチャード三世の動作を1分で考えてやってみて」という無茶ぶりをするんです。そうすると、みんなバラバラの動作をしていて。「なぜその動作をしたんだろうね?」という感じで解釈を深めたりすることもあるので、シェイクスピアのような作品も読書会には向いていると思いますよ。
森山:それは面白い。シェイクスピアだけでなく、他の戯曲でもできそうですよね。戯曲ってどのように読んだらいいのかいつも分からないんですけど、人と一緒に読んで「これはどういう動きなのか?」ということを試してみると楽しそうですね。
北村:例えば、みなさんが最初に頭で想像する「ハムレット」はルネサンス風の服を着ているのか、それともジーパンを履いているのか、フードを被って短パンを履いているのか、ビシッとスーツを着ているのか、みんなに聞いて想像してもらって。そうすると、着ている服によって動作が変わってきたりするので、戯曲はそういうふうに読むのが面白いのかなと思います。
※後編は12月31日に公開します。