2000年代初頭に青春時代を送った30代女子の間で話題になっている映画『レディ・バード』。都会への憧れを募らせ、髪を赤く染め、自分のことを“レディ・バード”と呼ぶ17歳のクリスティン(シアーシャ・ローナン)の高校生活最後の1年を描いた作品です。
監督・脚本は、ニューヨークの”絶賛モラトリアム中”のアラサー女子を描いたモノクロ映画『フランシス・ハ』(2012年)で主演と共同脚本を務めたグレタ・ガーウィグ。今回、自伝的要素を織り込んだ同作で単独監督デビューを果たしました。
そんなグレタと同じ1983年生まれの作家・タレントで、著書に『愛と子宮に花束を 〜夜のオネエサンの母娘論〜』もある鈴木涼美さんに『レディ・バード』が私たちの心をつかんで離さないワケについて寄稿いただきました。
不安で不満ばかりだった私たち
住んでいる街が窮屈なせいのような気もする。友人とのコミュニティが閉塞的だからのような気もする。母親が自分をうまく解放してくれないからのような気もする。
10代後半、私たちの多くが常にイライラして、不安で、退屈で、不満だった。そして本当はもっと楽しいはずだし、もっと何者かになれるはずだし、もっと素敵な世界があるはずだと期待しながら、もしかしたら自分は何者でもなくて、どこにも行けなくて、これ以上素敵になることもないんじゃないかという恐怖にも苛(さいな)まれた。
大人になって振り返れば、若さなんてそれだけで凄まじく価値のあるものだけれど、あの頃の私たちは必死で、何かに押しつぶされそうになっていた。
そんな不安で不満な10代の少女を描いた映画『レディ・バード』が若い世代はもとより、かつて若い女の子だったアラサー・アラフォー世代の女性の間でも話題になっている。
監督・脚本は『20センチュリー・ウーマン』では女優として出演していた私と同じ34歳のグレタ・ガーウィグ。ガーウィグ自身の出身地でもあるカリフォルニア州のサクラメント、ものすごいど田舎でもない、都会でもない、冴えない地方都市で、高校最後の年を迎えた少女の物語を、彼女と母親のぶつかり合い、親友とのぶつかり合い、男の子との関わり合いなどを通して紡ぐ。
自分自身を本名のクリスティンから“レディ・バード”なんて名付け直してしまう少女は、10代特有の過剰な自意識と世界への期待と絶望に溢(あふ)れた、それなりに複雑な、それなりにありふれたティーンエイジャーである。たまたま惚れた男に引っ張られて人気者のグループの一員になってみたり、そのせいでずっとつるんでいた冴えない親友との間に溝ができたり、親に内緒で都会の大学への進学を企てたり……。そういった、痛々しさと輝きを孕(はら)む心の動きは私たちの誰もがかつて感じたことのあるもどかしさと一致する。
10代の頃の恋愛なんて今思えば取るに足らない、つまらない、なんの意味もないように思えるものばかりで、本作が恋愛を中心に紡がれるのであれば、私たちの懐かしさを刺激はするものの、切実に訴えかけてくるものは少なかったかもしれない。
今も私たちを悩ませる「母親」という存在
ただ、この作品がそういった懐かしさと共感以上に私たちを惹きつけるのは、ものすごく繊細な母娘の執着を描いているからであろう。とっくに決着のついた10代の恋愛や友人とのこじれと違って、母親との関係は、今もなお私たちを縛ったり温めたりする悩ましいものである。
母と娘、というのはいくつかの段階を経て変化していく。当初、母親は娘にとって母親でしかなく、娘は母親にとって娘でしかないのだが、のちに私たちは鬼や友人のようなものに変化する母親が、自分の母親であると同時に自分と同じ「女」であることを意識せざるを得ない。母親にとっても、子供が時にモンスターや生徒に姿を変えながら、「女」として成立していくことを認めなくてはならない時期がくる。この過程こそ、最大の抵抗と痛みを伴って、私たちを悩ませ、奮い立たせるのだ。
映画の中でレディ・バードの母親は、無条件に彼女を包み込む大地のような存在としては描かれない。むしろその正反対で、彼女のやることなすことを素直には受け止めず、自分の理屈を振りかざし、時には過剰に愛情をかけ、時には彼女が望むような愛しかたを放棄する、複雑な存在だ。それは17歳のレディ・バードにとっての母親が、女としての形を見せつつあることを示唆している。彼女がもう少し小さくて、彼女自身がまだ女として存在する前であれば、母親の姿はあれほどまでに難しく荒々しいものではなかったはずだ。
私たちは子供から少女になり女になっていく過程で、母親の中の女を発見する。その時の母親は、自分が思っていたよりずっと弱く、不安定で、嫉妬深く、自分本位な姿を見せる。友人だったら当たり前の苛立ちや不可解さも、相手が母親となると受け入れがたく、許せない。口論は空転し、どうして自分が望む答えが返ってこないのか、なぜただ自分の幸福を祝福し、選択を応援してくれないのか、と虚しさが募る。
映画でレディ・バードがドレスを試着しながら、母親にどうして褒めてくれないのか、と問いただすシーンが印象深い。「最高のあなたになってほしい」と言う母親に、「今の私が最高だったら?」と返す。母親はどこかで、娘を自分の所有物だと思っているし、作品だとも思っている。それでいてどんどん自由になっていく娘に嫉妬し、不安になり、娘の中に見え出す女の影に、自らの女も思い出す。
初恋や友人とのいざこざが甘酸っぱいレベルで思い出せるのに対して、母との問題がもう少し重い形で私たちにのしかかってくるのは、この歳になっても母娘関係は苛立ちを含んで続いているからだ。いくつになっても母親は面倒臭いし、こちらの思うような反応を見せてはくれないし、主張ばかりが強くて一緒にいると疲れる。
私自身は32歳の時に母親を亡くしたが、ホスピスのベッドの上ですら、こちらは母親の望む言葉を投げかけることができなかったし、彼女からただひたすら私のことを肯定するような言葉も聞かなかった。
レディ・バードが私たちに刺さるのは、不安で不満でイライラして、ひたすら肯定されたかったし、理解されたかったあの時の気持ちが蘇り、今もなお続く母親とのシンプルにはなり得ないもつれた関係の起点を、思い出されるからかもしれない。
(鈴木涼美)
■映画情報
『レディ・バード』
TOHOシネマズ シャンテ他にて全国公開中
配給:東宝東和
クレジット:Merie Wallace, courtesy of A24