燃え殻『これはただの夏』書評

過去も現在も抱きしめて、誰かと生きていく【岨手由貴子】

過去も現在も抱きしめて、誰かと生きていく【岨手由貴子】

燃え殻さんの新作小説『これはただの夏』(新潮社)が7月29日(木)に発売されます。映画監督の岨手由貴子(そで・ゆきこ)さんに書評を寄稿いただきました。

終わりが来ることが分かっているからこそ…

雨の多い夏だな、と思った。

煌(きら)めくような物語が展開しそうになると、「いやいや、そんなはずはない」と雨が降る。

何にでもなれそうな快晴よりも、何もできずに一日を終えるしかない夕立にホッとしてしまう。そんな雨だ。

この小説は、著者である燃え殻さんが「ボクたちは誰かと一緒に暮らしていけるのだろうか」というテーマを念頭に書かれたそうで、“ひと夏の家族(のようなもの)”が描かれている。

ひと夏の恋、ひと夏の友情……。“ひと夏の○○”と銘打たれたものは、たいてい秋の訪れとともに終わってしまう。そう思うと物語の結末が見えてしまいそうだが、重要なのは結末ではない。終わりが来ることが分かっているからこそ言える言葉、近づける距離、というものがある。長くつづく関係を築くのは難しいけれど、ほんの数日ならば……と手を伸ばす。ここには、そんな夏の日々が綴(つづ)られている。

「ボク」が過ごしたおかしな夏の時間

物語は、「ボク」が二人の女性に出会うところから始まる。優香という妙齢の美女と、明菜という十歳の少女だ。

優香と出会う結婚式の描写は、私にも覚えがある。遠い知り合いのウエディングパーティーに人数合わせで呼ばれ、竜宮城のようなラウンジで知らない人と洒落た安酒を飲む。確かに、東京にはそんな夜があるのだ。

パーティーを抜け出した「ボク」と優香は、路上やファミレスで夜通し話をする。

「ずっと歩きながら話してたんだよ、ウチら高校生みたいに。私は忘れられないかもな」

この言葉から、優香が“思い出のなかの住人”であることが分かる。つまり、現在進行形のできごとではなく、それに似た記憶を取り出し、過去の感傷に浸るのだ。その姿勢は、少し「ボク」と似ている。

一方、明菜は「ボク」と同じマンションに住んでいるいわゆる鍵っ子で、水商売をする母親と二人で暮らしている。酔い潰れた母親を介抱したり、手際よく食事を作ったりと、日常的に大人の役割を押し付けられている子供だ。

「ボク」は行きがかり上、明菜を預かることになるのだが、母子家庭でほかに頼るところがないとしても、よく知らない男の家に子供を置いていくこの母親には相当な問題がある。明菜のほうも大人慣れをしていて、ほぼ初対面の「ボク」とモスバーガーに行くことに抵抗がない。周りからしっかりした子だと思われているが、こういった危機意識がスッポリ抜け落ちた、アンバランスな危うさを持っている。

「ボク」はこの二人とおかしな夏の時間を過ごしていくのだが、同時にひとりの友人を看取ることになる。仕事仲間であるディレクターの大関だ。愛嬌のある粗雑なキャラクターとして登場する彼は、物語の序盤でステージ4の癌に侵されていることが分かる。

この大関という人物が、とても良いのだ。下品で暴君ぶってはいるが、頭の回転が早く、繊細だ。闘病中にも関わらず「ボク」より生気がみなぎっているし、登場人物の中で唯一、この世界に対する愛情のようなものを持っている。

大関は病気のことをほとんど周りに公表していないが、なぜか「ボク」にだけ打ち明ける。入院中の面倒を頼みたいというのもあるだろうが、必要としているのは精神的な支えだろう。「ボク」は大関と過ごした過去を思い出し、大関は現在の話をする。

「ボク」と大関は軽口を叩きながら、終わりの時が来るのを待つしかない。

永遠に夏が終わらない国で生きていきたい

物語の冒頭、「ボク」は「永遠に夏が終わらない国で生きていきたい」と語っているが、とくに夏を謳歌している様子はない。「永遠に夏が終わらない国」というのは、夏であり続けるのではなく、「終わりが来ない世界」なのかもしれない。何かが終わっても粛々と前に進む人たちの列に交じれないのが「ボク」なのだ。

そして、「ボク」は似た気質も持つ優香の心に踏み込むことができない。もっと言うと、優香の“現在”に触れることができないのだ。「ボク」と優香は親密な時間を過ごすが、二人の距離が近づいたわけではない。お互いが過去に経験した、それに似た時間をリプレイしているだけだ。二人は一緒にいても、別々の過去を生きいている。

だからこそ、物語の終盤で大関から送られてくる写真は感動的だ。病院の屋上で撮ったその写真の「ボク」は、いつもの所在なさげなリミッターを外し、まばゆい夏の刹那を生きている。過去へとこぼれ落ちていく時間のスピードを追い抜いて、現在進行形の時間を生きるのだ。

「ボク」からその笑顔を引き出した明菜も、同じようにリミッターを外している。物分かりのいい子供の役を脱ぎ捨てて、大人の注意を聞きかず、笑い、はしゃぐ。もっと物分かりの悪い子供になって、もっともっと愚にもつかないことをして欲しいと願わずにはいられない。

過去も現在も抱きしめて、誰かと生きていく

こう書いてしまうと、終わることが目に見えている関係性ばかりが描かれているようだが、この物語はちゃんと「誰かと生きていくこと」についても考えさせてくれる。

作中、大関を見舞うために訪れた病室で、「ボク」がおもむろに八朔(はっさく)の皮を剥(む)きだす描写がある。

皮に爪を立てると目の覚めるような果汁のミストが広がり、弱りきった大関が「いい匂いだな」とつぶやく。生命の輝きを呼び起こすその匂いは、大関に生きている実感を喚起させる。八朔の匂いくらい、彼はこの先もずっと味わえるはずだった。だが、そうはならなかった。とても美しく、残酷な瞬間だ。大関が何を思ったのかは分からないが、彼は慈しむように、その生命の塊のような匂いを嗅ぐ。

きっとみんな、誰かの無意識の言葉に、励まされたり傷ついたりしながら生きている。それぞれに生きてきた時間と文脈があるから、誰かのふとした何かに意味を見出し、糧にする。人はそうやって、過去も現在も抱きしめて、誰かと生きて行くのだろう。

「ボク」はそんなつもりで八朔を剥き始めたわけではない。でも、大関には意味のあることだった。

そんなことを感じさせてくれる、素晴らしいシーンだ。

よく降った雨も、物語の最後には上がっている。

最後に大関がラジオに送ったリクエストの真意は、明菜にも芸人にも届かないかもしれない。けれど、大関の「してやった」というドヤ顔は「ボク」の頭には浮かぶ。それは「ボク」と大関が、確かにともに生きていたからだ。

(岨手由貴子/映画監督)

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