5分でわかる女子的社会論「私たちは、変わろうとしている」#7

「平成の暴風域」を抜けたとき、私たちが見る風景とは【河崎環】

「平成の暴風域」を抜けたとき、私たちが見る風景とは【河崎環】

「私たちは、変わろうとしている」
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まもなく元号が変わろうとしているのに、私たちをとりまく環境は何かと騒がしい——。それは、私たちが常に今を生きていて「これまで」と「これから」の間で葛藤を繰り返しているからなのかもしれません。

その葛藤や分岐点とどう向き合うべきか。エッセイストの河崎環さんに考察していただく連載「5分でわかる女子的社会論・私たちは、変わろうとしている」。

第7回は、漫画『ロマンス暴風域』(扶桑社)を通じて、“平成的な生き方”を考察していただきました。

リアルタイムで目に飛び込んでくるショッキングなニュース

平成は「内平らかにして外成る」、平和の達成を目指した時代だったなんてどこかで誰かが言うけれど、物心がついたらそこはもう平成だったようなアラサー世代としては、「平成30年間のうち20年はまるまる“失われ”ていたというのに、いったい何がどう平和だったのか」と思うんじゃないでしょうか。

平成の新元号発表記者会見を中3の冬にテレビで見た私にとって、平成とは、少なくとも前半は、見渡すかぎりの焦土で繰り広げられる、終わりのない戦いとしか思えませんでした。オタクという言葉を一躍有名にした宮﨑勤元死刑囚の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起き、日本は強いぞ、世界でナンバーワンだと夢を見たバブルがバチンと弾けて経済は失速失墜、阪神・淡路大震災の直後にカルト宗教のテロが畳み掛け、でもノストラダムスが言った恐怖の大王は来ないまま、昭和のSF映画やアニメが未来への夢と希望たっぷりに描いていたほどでもない21世紀を迎えました。

昭和と違ったのは、それらの出来事を歴史の授業で知るのではなく、全てリアルタイムに経験したこと。発生とほぼ同時にニュースとしてテレビやパソコンや携帯の画面から私たちの目に飛び込んできたということです。私たちは「自分たちが体重を預けている地面」も「人間がせっせと作った構造物」も「人間自体」も、足もとから轟音を立てて割れ、折れ、壊れるのだとリアルタイムに目撃しました。

平成について一つ定義するとすれば、人間の内面的な”何か”のねじれへと人々の関心が一気に引き寄せられた、内向の時代だったと思います。「プロファイリング」と呼ばれる犯罪心理学ブームや、精神医学ブームも起こりました。殺伐とした空気に疲れ、「癒し」や「泣ける」ブームも起きました。インターネットの普及によって人々の内面が可視化され、自家中毒のようにして凝縮していくのも特徴でした。

そして不況のプレッシャーから、専門家でもない個人たちが勝ち組とか負け組とか、格差などと口にして遠慮もなくお互いを比べ、評価を下し合う。そんな社会の、何が平和だったというのでしょうか。

フツーにドキドキとかしたいじゃん

『週刊SPA!』で連載された鳥飼茜さんの『ロマンス暴風域』は、いま30代の3人に1人が生涯独身として過ごすと言われる現代日本社会の「恋愛弱者のロマンス」を描いた作品です。30代半ばの高校美術教員・佐藤の非常勤講師契約が切れ、無職のプレッシャーや孤独の虚無感から逃げるようにして風俗へと足を踏み入れる。そこで出会った風俗嬢・芹香に運命を感じた佐藤は、彼女との関係にどっぷりと浸かり、それ自体が人生の目的となっていきます。しかし、「これは運命だ」との錯覚にすがればすがるほど、その「運命」からメッキが剥がれていくのです。

「フツーにいる女の人って…自分に得あるかどうかが大事なんだよ
でも俺って結局稼いでもなくて
そういうヤツは恋愛のスタートラインにも立たせてもらえないんだって
フツーにドキドキとか したいじゃん やっぱり俺も…」
(編集部註:佐藤)

「サトミン 言ってて気付かないの?
その嬢たちこそ「自分の得」のためにソコにいるんじゃん?」
(編集部註:芝内)

——『ロマンス暴風域(1)』P.54-55(扶桑社/鳥飼茜)

これは佐藤が学生時代の後輩女子である芝内に、風俗嬢に“運命”を感じたと居酒屋で打ち明けるシーン。芝内はさらに「サービスの対価として受け取るお金は、何かと引き換えなのだ」と続けます。

平成は「フツーであること」の意味に、注目に値する変質が生じた時代でもあります。親世代の失業率が上がり、新規採用も抑制され、学生が学校を順当に卒業して順当に就職することも難しくなったように感じられた時代でした。誰かと付き合うとか、結婚とか出産とか家族を持つとか、それまで誰もが「フツーにできる」と思われていたことも、困難になった。「フツーに生きる」ことこそ難しいことになってしまった。皆が一律に平等で均質だと思い込んでいた社会は、実は平等でも均質でもないバラバラの個人から成り立っていたのだ、「フツー」なんて曖昧な基準はもう通用しないのだということが、情報化社会で可視化されたのです。

また一方で、時代の注目から外れ、時代どころか社会に参加することもできなかった、まるで透明人間のように扱われたとの記憶を持つひともいると思います。インターネットの発達によって、現実の社会ではない、バーチャルな社会に居場所を作ることで現実を補完するようになった現代人たち。やがて情報や流行がネットから生まれるようになると、それまでは「信用に値しない」とされたバーチャルな世界での力が「立派な世間」の現実に影響を与え、現実を操作するという逆転現象が起きました。

「平成の暴風域」を抜けた、その先とは

しかしどんなにバーチャルな世界に没頭したりお金で欲望を叶えたりしても、私たちが否定しがたく生身の人間である以上、傷つくことからは逃げられません。拒絶や敗北の前に膝をついても、やがて立ち上がり歩き出し、居場所を得て回復していく。それが「とにかく生きる」ということなのかもしれません。

「幸せなんだろう 多分これが 俺の身の丈に合ったサイズの

これが俺に与えられた幸せなら それなら 大事にするしかない
ケッコンして 母さんにお嫁さんだって紹介して
俺の薄給でこのコを養って コドモができて もっと生活を切り詰めて
暮らして 働いて働いて 時々このコとセックスして
老いて 病気になったお互いの世話をして
ずっと あのコとだったらって 心の片隅でため息をつきながら だ」

——「ロマンス暴風域(2)」P.101-102、P.105-106(扶桑社/鳥飼茜)

想いを寄せていた芹香の拒絶から回復する佐藤が、なぜかやって来たモテ期の中で「経験値」を上げて自信や一種の傲慢が芽生えていくように、平成も同様に、傷が回復するにしたがって自我を取り戻し、揺り戻しで「わが国の品格」「日本はスゴい」とナショナリティが肥大する様子も見られました。個人も社会も、外側と内側の変化が双方向に絡まり作用し合う、有機的な存在だということなのです。

「ふと考える 僕は今どこにいるのだろう
乗り続けるかぎり目的地はない
山手線と同じように着いたと思う先にはまだ駅がある
次々に駅を通過する内にどこに向かっているのかすらわからない
どっかで降りなきゃ」

——「ロマンス暴風域(2)」P.150-151

内向性の時代、精神性の時代であった平成が終わる目と鼻の先には、2020という巨大な目標が用意されています。島国として閉じ気味であることに慣れた日本にとって、これは外向性の極致とも言える、ショック療法のような事態。閉じ切っていた自分の中の嵐と折り合いをつけた佐藤が「降りる」先に見る風景とは、他者との共生や共存、その中で発見する新たな自分の姿かもしれません。

本日の参考文献:
『ロマンス暴風域』1巻、2巻(扶桑社/鳥飼茜)

(河崎 環)

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