世間に衝撃を与えた厚木男児監禁遺棄致死事件。現在、この男児のように行方が分からなくなっている子どもが問題になっている。文部科学省の調べでは居所不明の小中学生は1,491人、厚生労働省ではこうした事態を受け、今年に入り小学校入学前の子どもも含めて実態を調査中だ。
幼い命は救えなかったのか? また、なぜ死亡から8年もの長い間発見されなかったのか? 男児の誕生から遺体発見までの経過からは、虐待対応の課題が見えてくる。
「待ちの姿勢」の公共サービス
児童相談所がより踏み込んだ対応をすべきであったと同時に、もう一つの問題点は、そもそも行政のあらゆるサービスが困っている人に「サービスを届ける」スタイルになっていないことではないだろうか。
行政は本来、義務教育終了までは子どもの存在をキャッチし、異常を察知できるタイミングを持っている。出産前には母子手帳の交付や妊婦健診の助成を受けていたか、産後は保健師の訪問や乳幼児健診を受けていたかなどである。これらを受けていないことが即虐待を意味する訳ではないが、その世帯が子育てに困難を抱えている可能性はある。子育て支援を行政側から届ける発想が必要だ。亡くなった男児は3歳半健診が未受診となっている。市側も待ちの姿勢ではなく、子育て支援を積極的に届けていれば、今回の事件も違ったのではないだろうか。
DVの発見は、すなわち虐待の発見
また、この事件では男児が迷子になり警察に保護された時も、発見と支援のタイミングになり得たはずだ。この際、児相は母親へのDV(ドメスティック・バイオレンス)に気づいていたようだ。そこで母親へのDV支援に入れれば、母親は子どもを置いて家を出ることはなかったかもしれない。なお、現在では直接子どもに身体的暴力が及ばなくとも、目の前でDVをみて育つことは虐待の形の一つとされる。DVの発見は、すなわち虐待の発見である。
さらに、男児死亡後だが、小学校入学時も姿を現さず、家庭訪問した教員は勝手な判断で「転居した」と処理している。また、水道料金は自治体の所管であり、長期間水道が止まっていたら生活に困窮していることが分かる。生活困窮の支援を届けるアプローチができれば、異常を察知することもできただろう。
こうした数々のサインがあったわけで、行政の「支援・サービスを届ける」という積極的姿勢の不足を感じざるを得ない。虐待となって児童相談所から「呼び出し」となる以前に、「あなたの困難を軽くするためにサービスを届けにきました」という姿勢でやってきた方が、当人たちも行政のアプローチを受け入れやすいだろう。
情報を共有しない縦割り行政の弊害
もう一つ、縦割り行政の弊害についても指摘したい。虐待対応で言えば、中心となる児童相談所は政令中核市を除いて、都道府県が担っている。一方で、子育てや義務教育、DV支援は市が担っている。この連携がしっかりできていることが重要である。また、警察は虐待の発見や、何か事態があった時の窓口にもなり得るため、児童相談所はもちろん、市役所との連携も重要であろう。
また、同じ市内であっても、子育ての部署とDVや教育委員会で情報を共有する、など自治体内で子どもたちや、困っている人を支える連携を組むことも、多くの自治体で課題となるだろう。
役所と住民もつながる地域づくりを
虐待の一つの背景にはその世帯の孤立の問題があるだろう。今回の厚木の事件も、行政はもちろんだが地域の住民も虐待や男児が居なくなったことに気づいていなかったわけである。虐待だけではなく、認知症の所在不明者もそうだが、子育てや介護をしている世帯を支えられる、つながりのある地域づくりも重要であろう。困った際には行政が責任を持ちながら、地域もそうした人たちを支える社会をどう作っていけるのかも問われている。