シリアの内戦は今もなお続いている。国、権力、宗教が絡み合い、恐怖に怯えるのはいつも一般市民。罪のない多くの人々が今も難民化することを余儀なくされ、命を奪われている。
多くの戦争報道ではその死者の数が伝えられるが、数というものは時に、その中で起きているリアルな悲劇を覆い隠し、想像力を奪う。泣きじゃくる子どもや、途方に暮れる母親の姿は、そこにはない。戦争で女性はどのように生き、何を守るのか。こうの史代による長編漫画『この世界の片隅に』が、それを教えてくれる。
戦時下でも、ほのぼのとした平凡な日常があった
本作は、第二次世界大戦の時代、広島の漁師町で育った「浦野すず」が主人公。絵を描くのが好きで、天然ボケでおっとりした性格から誰からも愛され、平穏な暮らしを送っていた。
すずは日々、家事と料理に奮闘する。洗濯物を水に漬けたり、包丁で野菜を切ったり、忙しなく右手を動かしている。そんなある日、すずは突然嫁ぐことになる。結婚相手の周作との関係と、彼を想うすずの繊細な恋愛描写。誰もが平和の中で笑い合い、作品全体が優しさに満ち溢れている。
爆弾によって吹き飛んだ右手が「世界を歪めた」
しかし後半、降りかかってきた爆弾がすずの人生を大きく変えてしまう。小姑の娘・晴美と繋いでいた自らの右手が吹き飛び、手の先にあった晴美の命は奪われてしまった。「あんたが傍にいながら…」と目に涙を溜めてすずを恨む小姑と、自責するすず。のどかで平凡だった日常が一変する。すずの心の声が呟かれていき、「うちの居場所は、本当にここなんじゃろうか…?」と葛藤を続ける。生き残ったことへの罪悪感に苛まれてしまう。
彼女は失った右手の記憶を辿る。そして、その記憶が大きなコマ一つに綴られる。かつてその右手は、料理を作った。洗濯をした。髪をといた。涙を拭いた。周作と抱き合った。晴美の手を繋いだ。そのすべてが、今はない。
すずは世界を「歪んどる」と表現する。右手を失ったすずの風景はまさに歪んでいた。ここで、こうの史代自身が利き手でない「左手」で描いた歪な風景のコマが強烈だ。この心理描写と戦争描写を一緒くたにした表現力が凄まじく、漫画にしかできない迫真の喪失感がコマいっぱいに描かれている。
なにがあっても「日常を続ける」女性の強さ
印象的なのは、戦争の終結を伝える玉音放送を聞いたすずの反応だ。温厚な彼女が、激しく憤り、泣き崩れてしまう。
「最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?」
何のためにすずの右手は無くなった? どうして、晴美は亡くなった?
「晴美さん思うて泣く資格はうちにはない」
すずのセリフは、戦争のニュースを見て心を痛めている“つもり”の我々に問いかける。
しかし、決して絶望を描いているのではない。必ず日常がそこに戻っていく。日常と戦争とが闘い、結果、日常が勝利していくような力強さがそこにある。それは女性の強さでもある。懸命に生きて、周作と愛を育み、右手と晴美の記憶とともに生きていく。
タイトルの“世界の片隅”とは、一体何を指すのか
戦争は決して戦場だけのものではない。特に日本では第1次大戦以降、戦争の形態が国家総力戦として大規模になっていくと、兵隊として召集されない未成年や病弱な男性、そして女性たちが「銃後の守り」としてさまざまな形での協力を要請され、大きな犠牲を払っている。
シリアを含む多くの紛争地域は、こちらからしてみるとただの“世界の片隅”なのかも知れない。しかし、日本にもその片隅はあった。今、立っている地面でかつて人々が命を落とし、涙していた。片隅も中心も関係ない。戦争を乗り越え「日常」を取り戻したとき、そこには女たちの尽力があった。
『この世界の片隅に』前・後編 こうの史代 著(双葉社)
2009年に文化庁メディア芸術祭のマンガ部門で優秀賞を受賞した作品であり、日本テレビでドラマ化。また、アニメ映画の傑作『マイマイ新子と千年の魔法』の片渕須直監督による劇場版が現在制作中とのことで、期待が高まる。
(文=竹内道宏)