20代の大成功と30代のモヤモヤ、そして40代で辿りついた“天職”

新卒1年目に社内ベンチャーで立ち上げた「ぐるなび」が大成功を収め、26歳で最年少の女性部長に大抜擢。一度は失脚するものの、再び返り咲き、31歳で取締役に――。華やかなキャリアを歩んできた吉田真由美(よしだ・まゆみ)さんが、40代で会社を退社し、“心のおもむくまま”に選んだ、自分らしくいられる働き方とは?
新卒1年目で立ち上げた社内ベンチャー「ぐるなび」
――「ぐるなび」を立ち上げたのは、新卒1年目だったそうですね。当時は、まだインターネットもほとんど普及していない時代。どのようにアイデアを?
吉田真由美さん(以下、吉田):大学卒業後、社員200名ほどの広告代理店に就職したのですが、入社直後に会長から与えられたミッションが、「新しいビジネスモデルを考えろ」。会社の事業の一つだった結婚式場の紹介業が踊り場を迎え、その打開策として新展開を新卒の3名で考えろというわけです。
目をつけたのは、目の前にあったパソコンと、結婚式の二次会会場として紹介していたレストラン。1995年当時は「ネット元年」と呼ばれた年でした。そこで、お付き合いのあった500店のレストラン情報をデータベース化し、目的別に検索できるシステムを作ろうと考えました。お客さんは自由に店を探せるし、レストランから月額3000円くらいずつもらえば、事業の固定収入になる。さらにミニ雑誌の広告と連動させたらどうだろう?と思ったんです。
――新卒1年目とは思えない発想力ですね。
吉田:まだパソコンがあまり普及していない時代でしたが、すでに一人一台パソコンが支給されていたんです。私も素人ながらサイト作りを手伝いました。その後、営業マンを採用、掲載店をどんどん開拓し、約1年後にサイトをスタートさせたんです。
立ち上げの反応は上々。当初は、大企業の社員が接待用の店探しに利用するケースが多かったですね。売り上げが上がらないレストランには、「クーポンをつけましょう」と提案。当時まだクーポンは珍しかったので、「そんなものをばらまいて客が来過ぎたらどうする?」と不安がる店も多かったのですが、「有効期限をつければ大丈夫です」と説得したりと、手探りで進めていましたね。
26歳で部長になったものの、平社員に降格
――その後、26歳で部長に就任しています。若手女性社員のスピード出世に、やっかみの声もあったのでは?
吉田:でも、社内では異色の部署だったので、他部署からバカにされて悔しい思いをしたことも。他部署の社員から「オレらの背中には1億乗ってるけれど、おまえらは月3000円を売ってるんだろ?」とからかわれた部下もいました。私も若かったので、カン違いして天狗になっていた部分があったかもしれません。それに気づかされたのが、その後の「失脚」でした。
当時の私は、“1万店舗の掲載”を目標にしていました。営業マンの中に、月3000円の契約店舗を増やすより、利益の取れるサイト内広告ばかり売り始めていた子がいました。私は相変わらず数にこだわっていた。そしたら、いきなり平社員に降格されてしまったんです。要は、事業部長として売り方を変えていかなきゃいけない時期なのに、それに気づかなかったんですね。
――でも、部長からいきなり平社員に降格というのは……精神的にキツいですね。
吉田:落ち込みましたよ。会議から外されるし、難しい営業先ばかり振り分けられ、「3ヵ月で目標額をクリアできなければ給料を下げる」と、会長から宣告。まわりの視線も痛かった。“最年少部長から平社員になった人だよね。まだ会社にいるの?”と思われているんだろうなって。
吉田:いったんは「こんな会社辞めてやる!」と思ったけれど、よく考えたら、ここで尻尾を巻いて逃げ出すのは負け犬みたいで格好悪いな、と。どうせなら、求められるようになって自分から辞表を叩きつけてやる!と奮起したんです。店舗数よりサイト内広告を重視していた前出の営業マンにノウハウを教わり、必死で食らいつきました。結果、半年で売り上げがトップになったんです。
――見事な巻き返しですね。どんな方法を使ったんですか?
吉田:無理やり売りつけるのは私のポリシーに反するので、その店にとって一番有効な方法を分析しながらPRの仕方を提案したり、月に1度、店舗を訪問してアドバイスしたり。「この店のよいところを伝えたい」という信念を感じてもらえたのかなと思います。
当時から常にものすごく忙しかった。月の残業が100時間超は当たり前。同期の男性からシャンプーを借りて給湯室で頭を洗ったり、そのへんに転がって寝ていたこともしばしば。売り上げトップになったことで自分的にも満足し、辞めようかなと思っていた矢先、会長から「部長に戻れ」と言われ、思わずガッツポーズ(笑)。ちょうど30歳の時でした。
――充実した日々だったんですね。
吉田:今思うと、あの頃は忙しくても楽しくて毎日を謳歌していたと言えるかも。でも一方で、必死になるあまり、事業よりも上司の顔色を見るようになってしまった面もありましたね。
――部長に返り咲くとは、あえて突き落として這い上がるのを待っていたかのようですね。その1年後には、取締役に抜擢されています。そして40歳で出産。その後もいろいろな葛藤があったとか。
吉田:子どもができ、会社都合の働き方に合わせられなくなってきたことも、モヤモヤの原因でした。仕事と育児のどちらも中途半端。子どもが病気になると自分を責めていました。子どもがピンチの時にはやっぱりそばにいてあげたいのが母親の本音です。もっと自由な働き方がしたいと思うようになっていきました。
娘が3歳になった今ならもっと冷静に考えられるかもしれませんが、当時はまだ1歳にも満たない第一子を抱えながらだったので、私のモヤモヤ度は相当なものだったんです。
「人が元気になる過程」に寄り添いたい
吉田:結局、散々悩んだ結果、1回リセットしようと決意。今のライフスタイルに合った働き方をしながら、ワクワクと前だけを見ていた自分に戻ろうと、20年目の節目に退社しました。ここまで自分を育ててくれた会長や社長には本当に感謝してます。私の器がもっと大きければ、また違った選択もあったのかも……と考えることもありますが、これが私なんですよね(笑)。
――そこからどういった経緯で現在の仕事に?
吉田:退職後はコンサルタントとして起業したのですが、今の会社の代表である丹埜に久しぶりに再会して、「一緒に働かないか」と誘われたんです。地域の遊休施設をリノベーションし、合宿などを行う施設として人が集まる場所に再生していると聞き、「私がやりたいことに似ている!」と感じました。
――“やりたいこと”というのは?
吉田:“人が元気になれる”リトリート施設*を作りたいと思い、心理学の認定カウンセラーの免許も取っていたんです。きっかけは、30代でメニエール病を患ったこと。私は1回離婚をしているのですが、当時夫と別居中でつらい時期でした。夫は優しくていい人だったけれど、私はもっと向き合いたかった。2人でいても寂しくて、結局離婚を選んだけれど、そんなことで離婚をするなんて自分勝手なのではと、すごく自分を責めたし、悩みました。
*仕事や家庭などの日常生活から離れて、自分だけの時間や人間関係に浸ることで、自分を見つめ直せる場所。
私にとって苦しい経験だったけれど、痛みを知ったからこそ、人が元気になっていく過程に関わりたい、寄り添いたいと思うようになったんです。
――そうなのですね。吉田さん自身、働き方を変えたことで、どんな変化を感じていますか?
吉田:一番の変化は、心が自由になったこと。今は、ある程度子育ての都合に合わせながら働くことを認めてもらっているので毎日が楽しいし、ストレスを感じません。夫がすごくフォローしてくれるのもありがたい。彼からもらった励ましの手紙をいつも持ち歩いています(笑)。
吉田:目指しているのは、みんなが自由で自分らしくいられ、いきいきと過ごせる世界。まずは、自分に関わる人たちがそんなふうにいられるような状況を作って、それをどんどん広げていきたいなと思うんです。
5時に起床(娘が夜泣きをしていた頃の習慣から、夜中の2時に起きて4時まで仕事をすることも)。8時半に子どもを保育園に送り、そのまま出社。日中は社内で仕事をしたり、施設のある千葉県鋸南町に出向いたり。18時半に子どもをお迎えに行き、19時半に夫と子どもと一緒に食卓を囲む。その後、お風呂に入り、22時頃、子どもと一緒に就寝。
(西尾英子)