アーティスト ギルバート・ベイカーさんインタビュー(前編)

LGBTの象徴「レインボーフラッグ」はなぜ6色? 作った人に聞いてみた

LGBTの象徴「レインボーフラッグ」はなぜ6色? 作った人に聞いてみた

LGBTの象徴とされる虹色の旗、「レインボーフラッグ」。実はこの虹が、7色ではなく6色であることに、あなたは気づいていましたか? この旗が誕生して、すでに40年近く。レインボーフラッグに隠された物語を、発案者であるアーティストのギルバート・ベイカーさんに直接聞いてきました。
(インタビュアー:牧村朝子)

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Q.初めてレインボーフラッグが使われたのは、いつのことですか?
1978年6月25日です。サンフランシスコ・ゲイ・フリーダム・デイ・パレードの日ですね。

 

Q.レインボーフラッグが生まれた経緯を教えてください。
当時は、ゲイ解放運動が新しいシンボルを必要としていた時期でした。その頃にはピンクトライアングル*が使われていましたが、これはヒトラーに由来している。とてもネガティブですよね。

ですから、何か美しいものが必要になった。ということで、虹というのはぴったりだったんです。パーフェクトでしたね。虹は自然で、神秘的で、そして美しい。

*ピンクトライアングルとは、ヒトラー率いるナチスドイツ政権下において、ちょうどユダヤ人につけさせたダビデの星のように、男性同性愛者につけさせた目印。当時、男性同性愛は犯罪であり、劣等な遺伝子によるものだとされていた。そのため、男性同性愛者は強制収容所に送られ、虐待を受けていた。なお、女性同性愛については、「なにはともあれ子どもを産める身体だ」と考えられ、まずは異性愛を強制された。それでも応じない者については、社会に対する反抗者の印であるブラックトライアングルがつけられた。

Q.みんな色とりどりに違うという、多様性の象徴としての意味もありますしね。
もちろん。すべてにおいていいでしょう。美しいものです。それに、何通りもの意味を読み取れる。いくつもの物事を表している。ユニバーサルで、世界のどんな場所にだってある。完璧な選択だったと言えるでしょうね。他の選択肢は考えもしませんでした。虹こそがシンボルになるのだと予感していたかのように。

Q.つまり、虹をシンボルにしようというアイデアが生まれた場所は、あなたの……
脳です。

Q.脳ですか?
ははははは。私の脳と、それから両手ですよ。私がやったんです。

Q.どれくらいの時間がかかりましたか?
最初の旗ができるまでに、ですか? 2週間くらいでしょうかね。手染めで作りましたから。オーガニックの染料で、美しい色を作る、1978年式のやりかたです。

Q.虹をシンボルにしようというインスピレーションに辿り着くまでにも、やはり2週間くらいかかりましたか?
いえいえ。NOですよ。インスピレーションは雷だ。旗を作ることになった時から、私は何をすべきか知っていた。ただ、従っただけです。起こるべき出来事を起こしただけです。布を染め、縫い合わせるのには、まあ、2〜3週間はかかりましたけどね。

Q.つまり、工程としては……
染色に1週間ほど。縫製に1週間ほど。インスピレーションには1分……いや、1秒くらいでしょうかね。

Q.1秒!
ええ。私は、知っていたんです。すべきことを知っていたんですよ。

Q.レインボーフラッグに対する反応はどうでしたか?
一瞬でしたよ。すぐに広まった。初めてレインボーフラッグが空に広がった瞬間から、誰もが虹こそ新しいシンボルだと理解しました。みんなが虹を見上げていた。本当に瞬く間に広まりました。もう、「オーマイゴッド!」という感じでしたね。

まったくクールなことです。いまだにこの現象は続いているでしょう。どこに行こうとも私の目には見えるのです。人々は私が誰であるのかを知らない。私はセレブリティではありません。それでも、人々は虹を愛している。虹を手にしている。

Q.最初は8色だったんですよね。
ええ。

Q.8色だった理由として、私が聞いたことがあるのは、サンフランシスコ・プライド**の隊列が8列だったからだというものなんですが……
いや、そのためではない。違います。8は、偶数だからですよ。半分が暖色で、半分が寒色だ。虹のスペクトラムは、さまざまな色に分けられます。特に、ピンクを入れようという考えは気に入っていた。ピンクトライアングルを使っていた時代とのつながりも出せますからね。まあ、理由はともあれ……。
**毎年6月最後の日曜日に開催されるLGBTのパレード。

(少し黙ると、立ち上がり、棚から8色の旗を取り出して広げ)

ただ、こうしたかったんです。

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Q.これが、最初のデザインですね。
ええ。最初の布です。初めて私が染めたものです。

Q.本当に!? なんて歴史的な……博物館に入れるべきですね。
ええ、博物館に入っていますよ。

Q.そうですね、レインボーフラッグは、MoMA(ニューヨーク現代美術館)に入っているんでしたっけ。
ええ。それに、ホワイトハウスにもね。ただね、このデザインのものを生産するのは、当時は本当に大変だったんですよ。脆いコットンでできていましてね。レインボーフラッグを使った最初の日以降、人々は私のところにやってきて、同じものを作ってほしいと言いましたが、私の手だけでは間に合わなかった。それで、旗を作っている会社に頼んだわけです。

この旗を持って行って、「これを作ってください。ゲイのシンボルにしますから」ということでね。ところが、ピンクはあまり旗に使われる色ではなかった。大量生産のためには、8色から6色に減らすことを受け入れなければならなかったんです。今日に見られるようにね。

工場には、確か、25色くらいしかなかったんじゃないかな。ただ、要するにポイントはね、これが虹だということなんですよ。6色であっても、8色であっても。すべての色のスペクトラムを表現できればそれでよかった。

Q.6色のレインボーフラッグを、ベイカーさんは“商業用バージョン”と表現していらっしゃいます。このことについてもう少し教えてください。
そうですね。明らかに、レインボーフラッグを売り買いしたい人はいますよね。美しい旗ですから。ナチュラルで。ただ、6色にしたのは必要に迫られてやったことです。

(テーブルの上の8色の旗を指し)これは私が実際に作ったものです。

(6色の旗を指し)これは商業的に作られたのであって、私が作ったものではない。今ここにあるのは確か、中国産のものだったかな。世界中いろんな場所で作られていますね。

Q.6色の商業用バージョンについては、何かネガティブなお気持ちがある?
ネガティブ? とんでもない! 旗が広がっていくためには必要なことでしたよ。

Q.ネガティブな気持ちはない、ただ商業的だというだけのことで、ニュートラルなお気持ちだというわけですね。
ニュートラルどころか、むしろポジティブですよ。商業的にも受け入れられたのは嬉しいことです。誰もがレインボーフラッグを手に入れられるのは嬉しいことです。今もいろいろと開発が続いているんですよ。花火のようにバッと広まることを期待していましたからね。その勢いというのは、商業的に成功しなければありえないことです。

Q.今も広まり続けていますからね。
私はこれ(レインボーフラッグの開発)を続けて38年になります。ここから38年後もまだ続けているでしょう。一度もストップしたことはない。

Q.ずっと続けるおつもりなのですね。いつか、あなたが……
死ぬまでね。

Q.アメリカの外、外国でレインボーフラッグがはためいているのを見ると、どんなお気持ちになりますか?
気持ちがいいですね。たいへん誇りに思います。人々はあの旗を私と結びつけては考えないでしょうが、私自身はあれが私の仕事だと知っています。人々は、あれがどういう意味の旗なのか知りながら愛していてくれるのです。ワンダフルですね。

人々はあのレインボーフラッグを、安全な居場所を作り出すために使う。誰にとっても安全な場所のために。気持ちがいいですよ。あれは私の個人的な歓迎のサインですからね。

Q.レインボーフラッグが使われた中で、一番感動的だったシチュエーションはどんなものでしたか?
(何かを思い出すように天井を見上げて)……とてもたくさん。一つだけ挙げることはできないな。強いて言うなら、2000年にローマであったワールドプライドかな。ストックホルムでも、ロンドンでのことも素晴らしかった。一番だなんて選べないよ。

Q.本当に。私、ウガンダで掲げられたレインボーフラッグには感動しましたね。ゲイの活動家だったデイヴィッド・カトーさんが殺されたりした中で、みな命を賭けてレインボーフラッグを掲げていた。
そうですね。ウガンダでも使われました。それぞれの手に小さな旗があって、どんなふうにも掲げられる。政治的なメッセージを込めて掲げられる小さな旗もあれば、何千もの人たちがお互いの存在を祝い合うために掲げる巨大な旗もある。儀式にも、反乱にも、祝祭にも使われうる。

Q.そうやって世界中さまざまな場面でレインボーフラッグは使われているわけですが、商標登録はしているのですか?
虹は、誰のものでもありません。ですからロイヤリティも請求しません。「売り上げ一つにつき2センスですよ〜」だなんて、そんなことしませんよ。レインボーフラッグの力の源の一つは、私たちみんながあの虹のオーナーシップを共有しているという事実ですからね。誰か特定の人がレインボーフラッグの所有権を持ってしまったら、今のような力は失ってしまうんですよ。

Q.最後に、LGBTという単語について伺いたいのですが……
LGBTは単語ではない。文字の集まりですよ。私の子ども時代には、それは”ホモセクシュアル”と表現されていました。やがて「ゲイ」と言い換えられるようになったのは、60年代から70年代初期にかけてのことです。それにしたって、あのニューヨークタイムズですら、70年代後半まで「ホモセクシュアル」という言葉を使い続けていましたがね。

70年代後半になって、「レズビアン」という言葉がより力を持ち、人々のアイデンティティのよりどころになった。「私はゲイじゃない、私はレズビアンだ」***というようにね。
***英語の「ゲイ(gay)」は、もともと、レズビアンも含む同性愛者の総称として作られた言葉であり、今でもそのように使われる場合がある。このように総称でまとめてしまうことが女性軽視につながるとの批判から、「私はゲイじゃない、私はレズビアンだ」と名乗る人が出始めた。

特に70年代に大きな変化があった。フェミニスト・ムーブメントの追い風もあり、女性が力を持つようになった。それで、レズビアン&ゲイムーブメントという形になっていきました。それから数年後、バイセクシュアルたちも声を上げるようになった。LGがLGBになったんです。そのまた数年後にトランスジェンダーも加えられ、LGBTとなりました。

Q.トランスジェンダーが加えられたのはやはり、トランスジェンダーが性的暴行の末に殺害された1993年の「ブランドン・ティーナ事件」があったからでしょうか?
何か特定のきっかけがあったとは思いませんが、ブランドン・ティーナ事件も人々を動かした一つの要因だったでしょうね。ともあれ、これを私は進歩と呼びましょう。ゲイがトランスジェンダーを受け入れた。レズビアンがトランスジェンダーを受け入れた。バイセクシュアルがトランスジェンダーを受け入れた。それらはすべて進歩なのです。

現在でもトランスジェンダーについては議論が続いているでしょう。トランスジェンダーは本当に性的アイデンティティの一つであるのかと。ですが、何はともあれ、トランスジェンダーも大きな虹の一部をなしています。大きな流れの中に存在してきました。いかなる性のあり方をしていても、人には基本的人権がある。人間としての権利があるんです。

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