中国の三大悪女
呂后、武則天、西太后。
中国五千年の歴史の中でも、三大悪女の名をほしいままにする三人。
恐ろしくも魅力的な女性ばかりですが、あえてランク付けするとしたら、武則天がトップにくることは、間違いないでしょう。
理由は呼び名をよく見てもらえばわかります。彼女だけ「后」という文字が入っていません。彼女だけはみずから皇帝の座に就いた人なのですね。かつては則天武后と表記されたものですが、最近の中国では、彼女は確かに皇帝の座に就いたという史観から、武則天と書かれるようになったのです。
彼女の人生は、悪だくみや嘘、甘い罠に満ち、実にスリリング。今回は、中国史上唯一の女帝、武則天の生涯をご紹介したいと思います。
「必ず天に昇る」と言われた幼子
武則天が生を受けたのは624年。ちょうど唐が興り、中国が強力な統一国家として急成長を遂げようとしている時期でした。幼名を媚娘といい、唐では中くらいの家柄の貴族の出です。
父親は建国の功臣で、武則天は彼から当時の女性にしては高度な教育を受けたようです。父親が熱心に娘を教育したのは、生まれた時に占い師が「この子どもは必ず天に昇る」と予言したためでした。
実際、媚娘と呼ばれていた頃の武則天には、そう期待させるだけのものがありました。漆のように黒く光る髪、幾千の星を宿した目、桃の唇に、薔薇の頬と、パーフェクトな美少女だったのです。
その美貌を認められ、実質的な唐の建国者と目される二代目太宗(李世民)の後宮に入ったのが14歳の時。地位としては低い才人としてでした。
もうこの頃から彼女の個性は常人とは違っていたようで、そのことに英雄、太宗は気づいていました。彼女に楽団の指揮や、紙や硯の管理など、いわば秘書としての仕事を任せてみたのです。どちらも責任重大な役割ですが、彼女はてきぱきと難なくこなし、才覚において衆に優れていることを示しました。
男性に媚びない生き方
ただ、男にわざわざ媚びるようなタイプでもなかったようで、一つエピソードが残っています。
ある時、太宗は群臣も列席するなか武則天に、
「気性が荒くて、御すことのできない暴れ馬がいるんだが、どうしたものだろう?」
と質問しました。気の強い武則天に対する当てこすりですが、武則天はニッコリと笑って、
「簡単なこと。鉄のムチに槌、そしてナイフの三つの道具さえあれば片がつきます。まず鉄のムチで叩きのめし、まだ逆らうようなら鉄の槌を首筋に打ち込む。それでもらちが明かないようなら、ナイフで喉をかき切ってやればよいのです」
これにはさすがの太宗もドン引き。彼はもともと女の才能と身体を同時に愛せる男ではありませんでした。武則天のことはもっぱら実務に使い、床を共にするのは別の女性になったようです。
二度目の恋
通常ならどれほど才覚が優れていても、女としてのキャリアはこれで終わりになるはずですが、太宗の九男、李治がなんと武則天に一目ぼれ。李治は父に似ぬ柔弱な人間でしたが、それだけに「強い女」である武則天に惹かれたようです。
李治と武則天は太宗の目を盗んであいびきするようになりました。太宗が老衰で倒れると、李治が見舞いに来たのを機会に、慌ただしく厠で交情するようなこともありました。
そして、649年、太宗はその栄光に満ちた人生を終えます。慣例で、妻妾のうち子どものない者は皆、お寺に収容されました。尼となって亡き夫の後生を弔うためです。
一生寺から出ることができないので、無理やり髪を削がれた女たちは泣き叫びましたが、武則天だけがひとり涼しい顔をしていました。
幸運にも太宗の後を継ぎ三代目皇帝高宗となったのは浮気相手の李治だったのです。兄たちが跡継ぎ争いや病気で死んだためで、いわば繰り上がり当選ですが、皇帝は皇帝。
武則天の美貌と才智に首ったけの高宗は裏から手を回して彼女を引き取ります。こうして、武則天は太宗に続き、高宗の妻となったのです。
しかし、女性の地位は実家の権勢の強さで決まるのが当時の慣習。どれほど皇帝の寵愛があっても、武則天は正夫人である皇后にはまだなれませんでした。その座は王氏が占めていて、武則天自身は少々位は上がったとはいえ、いまだ昭儀という低い身分でしかなかったのです。
ただ、王氏は子どもがおらず、そのためすでに男児を産んでいる第二夫人の蕭氏を憎んでいました。そこで彼女は武則天を取り込み、彼女を使って、皇帝の蕭妃への寵愛を削ごうと考えます。
しかし、これは犬を追い払うために、虎を呼び込むようなものでした。王氏の思惑通り、確かに武則天は皇帝の蕭氏への寵愛を奪いましたが、それは徹頭徹尾自分のためでした。やがて、皇帝の愛を独占し、娘まで生みます。
そして、その後、彼女はわが子を使って、王氏に一世一代の罠を仕掛けるのです。
わが子を出世のために縊り殺す
ある日、王氏は用があって武則天の部屋を訪ねたのですが、あいにく彼女は留守。赤ちゃんがひとり寝ていました。子煩悩だった王氏はちょっと赤ちゃんをあやしてやったあと部屋を出ました。
王氏が去ったあと、武則天は部屋に戻ってくるのですが、なんと彼女はみずからわが子を縊り殺し、それを王氏の仕業だと皇帝に讒言*したのです。結果、皇帝の王氏への愛情は決定的に冷めました。王氏、蕭氏は二人とも廃位され、代わりに武則天が皇后の位に就きます。
*ざんげん…誰かをおとしいれるため、嘘をでっち上げて目上の人に告げ、その人を悪く言うこと。
女として最高の座をようやくつかんだ彼女は、王氏、蕭氏に対し、すさまじい復讐をやります。いや、別に王氏も蕭氏も武則天に何ら危害は加えていないわけですから、復讐というのも変なのですが、かつて自分より立場が上だった同性がいるという事実さえ、武則天は許せなかったのです。
かつてのライバル二人への残酷すぎる拷問
武則天は王氏と蕭氏を捕えると、両手、両足をちょん切り、
「骨の髄まで酔うがいいわ」
と酒壺に漬けました。二人は苦しみながら長い時間かけて死んでいったといいます。
ライバルを抹殺すると、武則天は思いのまま権勢をふるい、高句麗や西突厥への遠征を成功させるなど、数々の業績を上げました。
国の興隆期という追い風もありましたが、唐の繁栄は彼女の卓抜な人材活用術のおかげでした。武則天は身分にこだわらず、意欲に満ちた新進の人材を登用したのです。この時、抜擢された者の中には、後の玄宗の時代にも活躍した人がたくさんいます。
男女平等の施策を打ったのも特徴で、父と母の喪の重さを同じにする布告を発したり、奉禅という朝廷で最重要の儀式の際、女人禁制だったそれに女官を参列させ、みずから酒を捧げたりしています。
そして、影の薄かった高宗が亡くなると、690年、ついに皇帝の座に就きました。すでに還暦を過ぎていたはずですが、いまだ妙齢のままに見えたそうです。
クーデターを起こされ、退位
およそ、人として望みうるものは、権力だろうが、財産だろうが、すべて手に入れた武則天。しかし、705年、ついに年貢の納め時がやってきます。ようやく訪れた彼女の衰えを狙って、彼女がかつて抜擢した重臣たちがクーデターを起こしたのです。
さすがの武則天も退位を余儀なくされましたが、彼女の一族は重臣たちと強固な縁戚関係を結んでいたため、それ以上の追及はされず、同年、彼女はいわば畳の上で、その波乱万丈の生涯を終えました。
子どもの命を踏み台にする手段は、現代の感覚ではついていけないところがありますが、自分の才能を十全に発揮するためなら、世間のつまらぬ良識はことごとく踏みにじった武則天。彼女の生き方は、現代女性もほんのちょっと、爪の先くらいなら見習ってもいいのかもしれませんね。
参考文献:「則天武后 女性と権力」(外山軍治著、中央公論社)、「ジェンダーの中国史」(小浜正子、勉誠出版)