今回の執筆者は、大阪・中崎町の本屋「葉ね文庫」の店主・池上きくこ(いけがみ・きくこ)さん。「葉ね文庫」は詩歌の本がメインの書店で、その店先には言葉を愛する人々が集っています。営業しているのは、平日夜と土曜のみ。そんな風変わりな書店の店主である池上さんの、平日(昼間)の顔は、なんとIT 業界で働く会社員。ふたつの“顔”を持つ彼女の心に残った一冊とは?
二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社)
大切な人が去り、心が欠けたままの人
出会わなければ知ることもなかった。
話をするだけで日常に色彩が加わるような、そんな人と出会ったことがありますか。
その人が落とした言葉を壊さないように拾い上げ、全身をこわばらせて、意味を読み取ろうとしたことが。
社会人になってからの私はずっと忙しく、IT業界の移ろいに振り落とされないように、心底それを楽しんでいるように念じながら技術書を読みふけり、バランスよく人と接し、まあそつなくやっていたように思います。
そのようななかで、美しい顔をした変人に出会いました。
文章を書く人で、お酒と生肝を愛し、いくつかの詩を好みました。言葉に神経質で、私が話すふわふわの地につかない言葉には眉根を寄せていることもありました。
たくさんの本を読んでいることが会話の中でわかりましたが、自分がほんとうに読みたい本が見つからない、自分で書くしかないと言って。時々ひどく口が悪くなりました。
その人がぽつりと落とした言葉は私にはすぐに理解できないことが多く、数時間かけて噛み砕いてやっと、ああ、そういう意味だったのかとわかりました。
時間差でやってくる解は、最後にぴたっと嵌る感じがしました。あの感覚は、なんでしょうね、他に代替がなく、おもしろかったな。
いつかこの人いなくなる、という予感はずっとあり、文学についていつまでも喧嘩していたかったのに、いろいろ事情があり、その人は去りました。
すぐに恐ろしさがやってきました。
あったものがなくなってしまう、見慣れた景色から色彩が奪われる、立っていた脚がぐらぐらとする、はじめての欠損でした。
それからずっと後のことです。二階堂奥歯『八本脚の蝶』を読みました。若くして自ら命を絶った女性編集者の、WEB上の日記全文を単行本化したもの。
この本にあるのはすべて本物の言葉でした。むき出し、恐れを知らない。
本を愛し執着し、言葉に、思想を、すべてを中に取り込んで、そののち彼女のものとして溢れ出た言葉は、一篇の詩のようでもあって、強く私を揺さぶりました。
ああ、いるんだ。普通の顔をして社会人でいて、中身はこうやって言葉が溢れかえっている人が。奥歯さんだけではなく、彼女を取り巻く人々が彼女のために発する言葉は、深く届くようにと尖がらせて、ぴかぴかに磨きかけられています。
また、桁外れの読書経験から選ばれた本の引用はとても魅力的。幻想文学・SF・詩歌・奇書の数々。ディープなブックガイドとしても楽しめます。
マンディアルグ、奢灞都館、アスタルテ書房。お話ししてみたかった。彼女が生きていればぜったいに会えた、などと、どうしようもないことを考えずにはおれません。
最後まで読むとつらいです。でも、またはじめから読めばいい。
欠けた部分は欠けたままでも、強烈な色彩に目がくらみ、本から目を上げて、いろんな人が歩いているな、と、じっとを眺めることができればよくないですか。
この本は劇薬なのです。
私は今、本屋をやっています。“本をまもるもの”となりました。
私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
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