男性に詰め寄り、箱を叩き割る
「包帯と消毒液が足りない。この在庫を使わせなさい」
クリミア戦争の時、医療品の欠乏に苛立ったナイチンゲールは、軍医長官ジョン・ホールにそう詰め寄りました。しかし、当時のイギリス軍の官僚主義と無能さの象徴のようだったホールは薄笑いさえ浮かべながら答えます。
「ミス……軍の決まりを知らないようですな。この箱は委員会の許可なしで開けられない。そして委員会が次開かれるのは3週間後です」
次の瞬間、ナイチンゲールは拳骨で箱の蓋を叩き割りました。そして、唖然としているホールに言い放ちます。
「開いたじゃないの。持って行きますからね」
日本の“聖女”イメージとは少し違う?
日本では看護の母として、母性や女性性を強調して語られることの多い、ナイチンゲールですが、その実態は気性激しく、自分のやりたいことを実現するためなら、どんな障害も力づくでなぎ倒す、ブレーキのない超高性能ブルドーザーのような人でした。
ナイチンゲールが生まれたのは1820年5月12日。
両親とも富裕な貴族で、3年(!)にも及ぶ新婚旅行の最中のことでした。フィレンツェで生まれたのでその英語読みフローレンスの名前をつけられたのです。
幼い頃の、一つの逸話が残っています。
初めての治療行為は、足の折れた子犬相手
ある日、散歩中に足の折れた子犬を見つけたナイチンゲールは、たまたま居合わせた牧師に「あんた手伝いなさい」と声高に命令。犬の手当をし、添え木をつけてから、やっと解放してやりました。
この話に彼女の特性すべてが詰め込まれているようです。
傷ついた子犬を助けようとする同情の強さ、てきぱき手当する実際的な能力、そして大人の牧師を自然と従わせてしまう不思議な威厳。
父親は、彼女に高い教育を受けさせた
父親のエドワードは女性も教育を受けるべきと考える人で、この天才少女に、イタリア語、ギリシャ語、哲学、歴史、そして女性にふさわしくないと考えられていた文章術と数学を教えました。
さらに超お金持ちなので、欧州各地へ旅行に連れていきます。ここで得た見聞が彼女の才能を大きく育てることになりました。
そして20歳のとき、ナイチンゲールは数学をもっと突き詰めてやりたいと言い出します。母親と父親までも「女の子が何もそこまで」と、大反対しましたが、その後も彼女の理解者となってくれるメイ叔母さんが間に入り、勉強ができることになりました。
すでに看護への志望を胸に秘めていたナイチンゲールは、訪れる国々の統計データを集めていて、そこに並ぶ数字へのあこがれがあったのですね。
数字に興奮していた少女時代
当時、ベルギーのアドルフ・ケトレという天文学者による、天文学のテクニックを社会学に応用した『人間について』という本がベストセラーになっていました。
これはいわば統計学を創始した本で、ダイエットに励む人を悩ませるBMIはこの本が初出だったりします。
ナイチンゲールは母や姉がロマンチックな恋愛小説に夢中になっているのをよそに、この数字ばかりの本に夢中になりました。
なかでもライラックの法則というものに大興奮。
「霜が降りなくなった日からの、一日ごとの平均気温の二乗を合計していき、それが4264になればライラックは開花する」
冷徹で峻厳な数学の世界が、実は深いところで、ライラックの美しい花、優しい命とつながっている。
この法則を知ったナイチンゲールは大はしゃぎして、何のことやらさっぱり分からないお姉ちゃんにライラックを贈ったり、ガーデニング仲間にライラックを指し示し「ケトレ先生の法則よ」と言って首をひねらせたりしました。
統計という技術(アート)を使って、ライラックを咲かせること。
それが彼女の人生の目標になりました。
看護師は未亡人やクビになったメイドが最後に行き着く職業だった
そして、1853年に看護の世界に飛び込みます。スレンダーで美貌のナイチンゲールは社交界の花で、婚約者もいたのに、すべてを振り切ってのことでした。ロンドンの病院の監督として、バリバリと辣腕を振るい、当時は未亡人やクビになったメイドが最後に行き着くところと思われていた看護師という職業に、誇りとプライドを与えました。
そして、翌年ついにクリミア戦争が勃発すると、友人で戦時大臣だったシドニー・ハーバードの頼みで、自らが選んだ38名の精鋭看護師とともに現在のトルコにあったスクタリ陸軍病院に向かいます。
ここでナイチンゲールは、不合理な男達の社会を体験します。本国と前線で二重化した命令体系は「医療品が足りない」ことを現地の担当官に伝えるだけでも、わざわざ本国の司令官→現地の司令官というルートをたどる必要があるほど、非効率なものでした。
しかも、「あまり咎める感じにならないようにね」という但し書きつきで。スカートを踏まないように注意する、舞踏会的気づかいでしたが、その足元では負傷兵がバタバタと死んでいました。
非効率的・不衛生な病院の環境
病院も悪夢のような代物で、外観だけは豪華でしたが、何の覆いもない下水の上に建てられていて、糞便の溜池に浮かんでいるようなものでした。ナイチンゲールは「なかった方がまし」とまで言っています。
こんな危機的状態だったにもかかわらず、ナイチンゲール達は現場の医師たちから邪魔者扱いされました。彼らのボスであるホール医務長官が「何の問題もありません」という報告書を送ってしまったため、彼女たちが活動し、実態が知られてしまうのは都合が悪かったのです。
しかし、ナイチンゲールはこれまでの人生で積み重ねてきたありとあらゆるものを使って、ホールを代表とする、官僚主義的無気力に対抗します。
誰もやりたがらないため誰の仕事でもなかったトイレ掃除を皮きりに徐々に自分の権限を押し広げ、状況をタイムズ紙にリーク、私費や寄付を投じて医療品・食料品を確保
、果てはコネでヴィクトリア女王を動かすなどなど。その活躍ぶりは、この人がクリミア戦争全体の指揮を執った方がよかったんじゃないかと思わせるほどです。
ナイチンゲールの働きで、死亡率は42%から2%に
結果、死亡率は42%から2%にまで減り、彼女はあの有名なフレーズ「ランプの貴婦人」として兵たちから母親のように愛されることになりました。
しかし、彼女の胸には「もっとたくさんの人を救えた」という悔恨の方が大きかったようです。戦争が終わり、帰国すると、クリミア戦争での死者の原因分析をまとめた900ページに及ぶ報告書をまとめ政府に提出しています。
このなかで今ではおなじみの図解グラフを世界で初めて使用しました。それは学のない一般市民でもメッセージを読み取れるようにするためでした。そのため、彼女は統計グラフの先駆者と呼ばれています。
そしてこの報告書こそが、イギリスのみならず、世界中の国に、近代的な健康福祉をもたらす礎となるのです。
1857年頃から過労のため断続的にナイチンゲールは床に臥せるようになります。しかし、「誰もが健康な生活を送れるようになる」ための社会改革への情熱は冷めやらず、ベッドの上からでも精力的に働き続けました。
イギリスだけでなく、世界各地に、自分の夢を継いだ看護師たちを送り込み、150編の著作物、1万2千通以上にも及ぶ書簡を書き残しています。
天使とは、美しい花を振り撒く者ではない
そして、1910年、90歳で教え子と愛する猫たちに囲まれて、眠るように息を引き取りました。
クリミアの天使とも言われ、優しい女性、慈しみ深い母親のイメージで語られることの多いナイチンゲール。しかし、彼女自身は自分のことを次のように語りました。その言葉をもってこの物語を終えたいと思います。
「天使とは、美しい花を振り撒く者ではなく、苦しみあえぐ者のために戦う者のことだ」
参考文献:『実像のナイチンゲール』(リン・マクドナルド著、金井一薫訳、現代社)/『ナイチンゲールは統計学者だった!-統計の人物と歴史の物語』(丸山健夫著、日科技連出版社)/『フローレンス・ナイチンゲールの生涯』(宮本百合子、Amazon Services International, Inc)/『黒博物館 ゴーストアンドレディ』(藤田和日郎著、講談社)/『ナイチンゲールの『看護覚え書』 イラスト・図解でよくわかる!』(金井一薫、西東社)/『ナイチンゲール 心に効く言葉』(フローレンス・ナイチンゲール著、ハーパー保子訳、サンマーク出版)