映画「月光」試写会レポート&監督インタビュー

「魂の殺人」と呼ばれる性暴力被害を描く映画「月光」から見えること

「魂の殺人」と呼ばれる性暴力被害を描く映画「月光」から見えること

被害にあった女性の9割以上が警察に訴えることができず、泣き寝入りしてしまうともいわれる「性暴力被害」。深刻な状況にもかかわらず、表面化せずに隠されてきた社会の闇をえぐりだし、その苦しみを描いた映画「月光」が6月11日に公開される。監督は、前作「風切羽」で虐待を受けた子どもたちを映し出し話題となった社会派映画監督の小澤雅人(おざわ・まさと)氏だ。

公開に先がけて、4月17日に女性限定試写会が行われた。性暴力被害者の支援に取り組まれてきた寺町東子(てらまち・とうこ)弁護士や、ライターの小川たまか(おがわ・たまか)氏なども参加した試写会と、監督へのインタビューの様子をお伝えする。

人間の根源である性を傷つけられた女性たちの絶望

本作では、性暴力を受けた2人の女性の日常が交差する形で描かれている。ピアノ教師として働くカオリは発表会の帰り道、教え子ユウの父親であるトシオに車に乗せられ、性的暴行を受ける。被害を誰にも言うことができず、孤独の中で繰り返されるフラッシュバックに苦しむカオリ。

ある日、そんな苦しみの底にいるカオリのもとを教え子のユウが訪れる。実はユウもまた自らの父親であるトシオから性的虐待を受けていたのだ。人間の根源である性を傷つけられ、行き場のない感情を抱えた2人が向かった先は――

映画「月光」より

性被害にあった女性の絶望と苦しみをリアルに表現

今回の試写会には、日頃から性暴力被害者の支援にあたり、第一線でその防止に取り組んでこられた多くの方々が参加していた。上映後、そんな参加者の方々が一様に口にしたのは「性被害にあった女性の絶望と苦しみが詳細に、かつ現実味をもって表現されている」という点である。

例えば、映画にはレイプの被害にあったカオリが夜道を一人で歩くシーンがある。耳に入る自分の足音、通り過ぎる車のエンジン音。そして横を通り過ぎる男性。こうした身の回りのものすべてが事件当日を思い起こさせ、カオリはその場に立ちすくみ、泣き叫んでしまう。消そうとしてもよみがえる「あの日」の記憶がカオリをさらに深く蝕んでいくのだ。

一方で、自分の父親から日常的に性虐待を受けているユウの表情は、一切の感情を失ってしまったかのようだ。一番身近な存在でもある父親から性虐待を受けるという、複雑で表現しがたい感情を幼い体と心に閉じ込め、誰にも言えない苦しみは澱(おり)となって心の奥深くに沈んでいく。

事件の当日から一変してしまったカオリと、性虐待という歪(いびつ)な行為が繰り返される日常を必死で生きるユウ。スクリーンに映し出される彼女たちの日常を通して、性被害の苦しみが見る者の胸に突き刺さる。

加害者の姿も描くことで、性暴力は身近に起こることだと伝える

本作のもうひとつの大きな特徴は、被害者だけでなく加害者男性の日常や感情にもカメラを向け、詳細に描こうとしている点にある。

性暴力被害の悲惨さを伝えるためには、加害者は一面的な「悪」として描いたほうが、ある意味ではわかりやすい。しかし、映画「月光」では、あえて加害者であるトシオの生活や感情、そしてその言葉を丁寧に表現しているという。それにより、性暴力が「自分たちの身近な人間関係の中で起こっている」というリアリティを伝えようとしている。小澤監督はこう語る。

「性犯罪者の中には、高学歴であったり有名企業に勤めていたりするなど、はたから見れば立派なキャリアを築いている人も多くいます。しかし、一般的には『性犯罪者は自分たちとは違う世界にいる変人だ』というイメージが強いのではないでしょうか。

そんな加害者への誤ったイメージが『そんな危険な男性に近づいた女性が悪い』という被害者側へのバッシングにつながっている側面もあります。こうしたバッシングをなくしていくためにも、加害者の感情や生活のリアルさを描きたいと思いました。

もうひとつ、加害男性の姿を丁寧に描くことで伝えたかったのは、誰にでもこうした犯罪を起こしてしまう可能性があるという怖さです。トシオは家庭でも仕事でも抑圧を受けており、通常なら犯罪を抑止してくれるはずの周囲からのストッパーが機能していませんでした。それらが積み重なり、彼は性犯罪に足を踏み入れてしまった。性犯罪は日常の沿線上にある。それを丁寧に描くことで、誰でも加害者になりうる危険性を伝えたかったんです」

社会の性暴力への偏見が、被害を打ち明けづらくさせる

最初に述べたように、性暴力の被害を警察や周囲の人に相談できる人は少ない。実際に映画の中でも、カオリやユウは性暴力被害を受けながら一人で抱え込んでしまう様子が描かれている。物語の終盤でカオリが勇気を振り絞り身近な人に自らの経験を伝えるシーンもあるが、「そんな嫌な思い出、早く忘れてしまいなさい」と話を聞いてもらうことすらできない。

試写会に参加したライターの小川氏は、このように女性が被害を人に話すことができず、また周囲の人がその被害を適切に受け入れることができない理由についてこう話す。

「レイプや性的虐待に加え、痴漢などの性的暴力に関しては社会に両極端の偏見があると感じています。ひとつめが性被害の深刻さを理解しつつも『恥ずかしいことだから隠さなくては』と当事者が被害を抱え込むことを促進してしまうような偏見。そしてもうひとつが『そんなこと、大したことない』と被害の深刻さを軽視するような偏見です。

このふたつの偏見のはざまで、実際に被害にあった人は口をつぐみ、周囲の人は適切な対応ができない状況に陥っています。こうした偏見をなくし、当事者が適切なサポートにつながることができる環境を整えていかなくてはならないと思います」

「被害に遭った女性も悪い」風潮も被害が表に出ない要因に

性暴力に関するもうひとつの大きな偏見として「被害にあった女性の側にも責任がある」というものがある。女性のほうから誘ったのではないか、逃げればよかったのに……そんな責任を被害者女性に負わせようとする論調もまた、被害について口を閉ざす要因となっている。

映画「月光」では、こうした偏見が生まれてしまう背景も丁寧に描かれていると性暴力被害者の支援にあたってきた寺町弁護士は話す。

「例えば、ユウと父親トシオとの関係性も物語の中で描かれていましたよね。親から性虐待を受けている子どもは、親子という関係性上、父親に頼らなければ生きていくことができない。だからこそ、その関係性から抜け出せないこともあります。

また、性虐待にあった経験を持つ人は、小さい頃から女性性を使ってコミュニケーションをとることを強制されてきた。だからこそ、成長してからもそうした形で他者とコミュニケーションをとり、さらに性被害に巻き込まれてしまうという側面もあります。

単純に『逃げればよかった』『女性側が誘った』とは言えない複雑な背景があるということがわかってもらえると思います」

社会の中で隠されてきた性暴力を照らす「月光」

様々な偏見ゆえに、社会の中で隠されてきた性暴力。その社会の闇をスクリーンに表現することにはどのような意味があるのだろうか。最後にこの点について小澤監督に聞いた。

「レイプや性虐待以外にも、痴漢や露出魔など、性暴力を受けた経験のある女性は多いと思います。でも、日本にはまだその被害を周囲の人に言いにくいという現状がある。だからこそ、まずは多くの人に映画を見てもらい、性暴力について知ったり考えたりする機会に繋げられたらと思います。

そして、見てくださった方には感じたことをぜひ周囲の人に伝えてほしい。社会全体で性暴力について話せる雰囲気を生み出せれば、『自分もこういうことがあったよ』と被害を口に出して、助けを求められる人も増えてくるかもしれない。この映画がそうしたきっかけを生み出すことができればいいなと思っています」

タイトルの「月光」には、「どんなに暗い闇の中にでも一筋の光が差し込むはず」という被害にあわれた方へのメッセージが込められているという。そして、性暴力が闇に葬られているこの社会において、この作品もまた一筋の光になるのではないだろうか。

■公開情報
「月光」
公式サイト
2015年6月11日(土)より新宿K’s cinema他にて公開

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