2009年に、79歳で宅地建物取引士資格※1(通称:宅建士)を取得し、最高齢合格者として表彰された和田京子(わだ・きょうこ)さん。80歳で「和田京子不動産株式会社」を設立し、現在はお孫さんとともに、仲介手数料無料の「世界一親切な会社」を目指し、日々奮闘している。専業主婦として60年を過ごした後に人生を一転させた彼女の生きざまとは。
※1…平成26年度までの名称は「宅地建物取引主任者資格」
結婚前に「子どもは望めない」と告げられて
――和田さんは不動産会社を立ち上げる前には、長い間専業主婦だったとお聞きしました。
和田京子さん(以下、和田):私たちの世代だと女は“売り物”でしたから、「女の幸せは結婚して子どもを育てて専業主婦になり、ばあさんになって死ぬこと」という考えでした。そして“売れ残り”として一生独身の職業婦人となる女は不幸だと。結婚して子育てするか、独身で働くかの2つしかない。働きながら子育てするなんて顰蹙(ひんしゅく)の的でした。そして特別な事情がない限り、子どもがいるのが当然の時代でした。
そんな時代に、私は結婚前に結核にかかり、医師から「子どもは望めない」と言われてしまいました。夫は、彼の兄がすでに戦死していたこともあって、ご両親に後継ぎを嘱望されていたのです。でも、彼は自分の両親に「孫を見せられない」と謝った上で私と結婚してくれました。子どもがいない人生を夫婦二人で生きようと。しかし幸運にも、結婚後は一男一女に恵まれました。そして教師だった夫と子どもたちを支える専業主婦として、60年間生活をしていました。
夫の死……「自分の人生はもう終わり」
――宅建を取得したのは何がきっかけだったのでしょう?
和田:私が65歳の時、夫が病気で入退院を繰り返すようになりました。夫は子どもができないかもしれない私と結婚してくれた。「今こそ恩返しの時だ」と思い、毎日とことん看病したんです。看護婦さんが、新品を買ってきていると間違えるくらい、パジャマはもちろん肌着まで毎日洗ってアイロンをかけて病院に持って行った。そんな看病生活だったので、夫が亡くなった時、「私でなければここまで生かせなかっただろう」という達成感がありました。そして、夫がいなくなった今、自分の人生はもう終わったのだなと。
「勉強」と「資格」に魅せられて
和田:それからは毎日気楽に過ごすという初めての贅沢を味わいました。主婦は絶えず、夫や子どもを待つ生活です。これまで、自分が食べたい時に食事をすることなんてありませんでした。あとわずかの人生を、好きな時に食べて好きな時に寝るという暮らしを続けられればいい。そんな私を見て、孫が「おばあちゃん、何か勉強してみたら」と言ったんです。その時、「勉強」という響きにピンときました。
――なぜ、ピンときたのでしょう?
和田:私の学生時代は戦争で、戦火で学校が焼けてしまい、勉強を目いっぱいできませんでした。だから「勉強」という言葉になんだか惹きつけられて。孫が「どうせ勉強をするなら資格を取ったら」と言うんです。60年間専業主婦で、仕事に活かせる技術は何も持っていなかった。だから「資格」は魅力的でした。宅建の受験資格は学歴も経験、年齢も問わないことを孫が調べてくれたので、それに決めたんです。
“嫌われること”が新鮮な経験だった
――そして無事試験に合格し、翌年に起業されたと。起業した当初はどんな気持ちでしたか?
和田:正直、怖かったです。専業主婦というものは、嫁ぐ前は「◯◯さんのお嬢さん」、嫁いだら「◯◯さんの奥さん」、子どもを産んだら「◯◯さんのお母さん」、年を取ったら「◯◯さんのご隠居さん」となります。私は60年間、自分の名前を名乗る機会がありませんでした。なので、最初は電話に出て自分の名前を名乗るのさえ恥ずかしくて怖かったんです。
誰かの付属物であるうちは、“嫌われる”こともほとんどありません。不動産の営業をしている時に、お客さんに怪しまれたり、煙たがられたりしたことは新鮮な経験でした。
――働くことが、すぐに喜びにつながったわけではないのですね。
和田:今は人前で喋れるようになりましたし、一日一日、自分が変身していく実感があります。ウルトラマンやジャックと豆の木のように、にゅ~っと自分が大きくなっていく感じです。家族にも、「おばあちゃんはこんなに明るい人だったんだ」と驚かれています。逆に言うと、専業主婦時代にどれだけ自分を抑えていたのかということなんですが。
“付属物”として過ごした時間を取り戻す
――今は何に喜びを感じていますか?
和田:やっぱり「自分で稼いでいる」ことですね。「自分の足で立っているんだ」という喜びや自信。自分の稼いだお金で物を買う嬉しさは何物にも代えがたいと感じます。新卒の初任給と似た感覚なのかもしれませんが、初めて稼いだお金で買い物をして、財布からお札を出した時はもう嬉しくて嬉しくて。
主婦はどんなに一生懸命にやってもプロにかないません。料理をいくら頑張ってもプロのシェフには負けるし、洗濯をいくら頑張ってもプロのクリーニング屋さんには負ける。専業主婦時代には「働かなくても生きていけていいわね」と言われることもありましたが、あの頃は人間というより誰かの付属物だったんです。今は、付属物として過ごした何十年もの時間を短縮して取り返している気がします。
女として、この時代を生きられてありがたい
――「自立」が働き続けるモチベーションになっているんですね。
和田:そうですね。それと、自分が生きていることも。戦争中には、お国の人のために命を落とした人たちがたくさんいました。戦争では「いい人」ほど死んでしまったのに私は生き残った。それがすごく申し訳ないんです。なぜ生き残ってしまったのだろう。終戦時に自決すべきだったのだろうか、と。
私よりも前の時代を生きた、平塚雷鳥さんや神近市子さんといった女性解放運動家の先輩方がいばらの道を開拓してくれたおかげで女の道が拓かれました。まだまだ男女差はあるけれども、自分たちが今、この時代を生きられてありがたいという感謝の気持ちを忘れたくありません。だから、今の社会や先輩方に恩返しがしたいんです。仲介手数料無料の不動産会社なんてやっていけるわけないのですが、「自分が死ぬまではボランティアとしてやりたいからやらせてくれ」と家族や周囲に話しています。
子どものいない人生も結構いい
――和田さんは結婚前に「子どもが産めない」と医師から言われていましたが、女性にとっての子どもの有無についてはどう思いますか?
和田:結婚前は夫と一緒に「子どものいない人生設計」を考えていましたから、なんとなくどちらの人生も味わった気がしています。結果として子どもができたから切り替えましたが、子どものない人生も結構いいと思うんですよ。それぞれに、それなりの人生がある。
医師の診断を聞いた当時は「女であれば子どもは産んだ方がいい」と思い込んでいましたから、落ち込むこともありましたが、今はどっちでもいいと思います。「子どもを持たなきゃ」と信じ込んで無理にお金や時間を使う必要はありません。今の時代は戦後に比べて豊かになっていますから、自分にあったものを選べばいいだけ。女一人でも十分生きていける。一人になったら好きなものを見つけて立ち上がればいいんです。
何歳になっても、人はこんなに変わる
――最後に、若い世代へのメッセージはありますか?
和田:勉強してほしいですね。本を買って美術館に行ったりして、「自分の肥やし」を蓄えること。若い頃に蓄えたことは一生残ります。私自身、若い人たちと会う機会が増えて毎日いろいろなことを勉強させていただいていますが、この歳になってから蓄えたことはすぐに忘れてしまうんですよ。大事なのは、失うものをいかにして失わずにいられるか。それを絶えず考えて生きる。私は人生で後悔していることは何ひとつありません。「わが青春に悔いなし」です。何歳になっても、人はこんなに変わるんだということが伝われば嬉しいですね。