うららかな春の日に突如、「私、今年、結婚するんだ!」という予感に襲われた35歳の編集者Aちゃん。会社の会議室に舞い降りたカリスマトレーナーの豊川月乃(とよかわ・つきの)先生からヴァージンロードを美しく歩き切るためのレッスンを受けることになりました。レッスンが進むにつれ、Aちゃんは自分の内にこれまで感じたことのない自信と幸福感が満ち満ちていくのを感じました。ウェディングドレス姿の基本姿勢から、ヴァージンロードの歩き方までをマスターして、いよいよ最後のしあげです。はたしてAちゃんの予感は現実のものとなるのでしょうか。
【第1回】会議室で勝手に花嫁修行!「上半身後ろ倒し」はヒロインになれる魔法のポーズ
【第2回】ドレスは蹴り上げて進め! 最高に綺麗な花嫁になれるヴァージンロードの歩き方
結婚式、つまずいた時の対処法
「では、もしもの時のための緊急措置も教えておくわね」
豊川先生は切れ長の美しい瞳をキラリと鋭く光らせて言いました。
「もしもの時?」
「そうよ。たとえば、ドレスの裾を踏んでつまずきそうになった時。もしもの時も何事もなかったかのようにクールに対応できてこそ、大人の女性なのよ」
「ですよねっ! 私、もしもの時に備えます!」
「結婚式の途中で『あ、ドレスの裾を踏んじゃった!』という緊急事態にすべきことは2つよ。①その場で1度足踏みをする。②上半身を後ろにさらに反らせる。裾を踏んでしまった時、焦ってもう一歩出てしまいそうになるけど、それをやるとさらに裾を踏んで最悪つまずいてしまうの。だから『やばい!』と思ったら、とりあえず踏んだ足を引いて、上半身を後ろに倒すことを意識して。そうすれば、パニックにならずにピンチから脱せられるから」
「なるほど〜! これが大人の女性のテクニックですね! すごい勉強になる〜。覚えとこっと」
「では、次は手の組み方を教えるわよ」
「はい!」
「こういう細かなところまできちんとツメられてこそ、大人の女性。左手を上にして右手の上にそっと添えて、おへその下のあたりに置くのよ」
キスを交わすときの注意点
「ブーケを持つ場合は常におへその前にくるように。緊張すると無意識のうちに上がってきてしまうから注意して。手をおへその下のあたりにキープしておくと、ブーケがちょうどおへその前にきてバランスがよくなるわよ」
「そうなんだ〜! ブーケのお花、何にしようかな♪」
「最後にキスを交わす時の注意点も教えておきましょう」
「ぜひ!ぜひ!」
「キスは新郎にすべてを委ねるのよ。自分から迫るようなマネはしないこと。少し腰を落としたら、あとは目を閉じてじっとしていて。未来の旦那様がベールを上げて優しくキスをしてくれるから」
「はいっ!」
「では、やってみましょう。私が新郎役をするわ」
Aちゃんは会議室の真ん中に立ち、豊川先生から言われた通りに軽く腰を落としました。先生の気配がしてベールのレースが擦れ合うかすかな音が聞こえました。
美しさは外見ではなく“自信”
その時です。会議室に拍手の渦が巻き起ったのは。Aちゃんは驚いて目を開けました。隣で会議をしていたはずのおじさま方が全員、Aちゃんの方を向いて熱い拍手を送っていたのです。
「ブラボー!!!」
「君はとても素敵だよ」
「信じられないくらい美しい」
「えっ、見えてないはずじゃ……」
「あまりに美しいから他の人にも見せてあげたくなっちゃったの。だから、会議中のうたた寝に見る夢として、おじさま方にもAちゃんの姿を見せてあげたのよ。Aちゃん、今、あなたは宇宙一美しい人なのよ。美しさとは外見じゃないの。美しさとは揺るぎない自信のことよ」
豊川先生はまっすぐにAちゃんを見つめて語りました。
「さて、これでレッスンはおしまいよ」
「月乃先生、ありがとうございました! わ〜!これで今年の結婚式はカンペキ!」
「えっ、今年?」
「えっ、今年じゃないんですか?」
「うふふ、それはどうかしら……」
豊川先生はAちゃんの質問には答えず、あいまいな表情を浮かべてほほえんだだけでした。
さよなら、月乃先生
「あら、いけない、私、もう行かなくちゃ。次のレッスンがあるから。あなたのように私を必要としている人が大勢いるの」
そう言うと、豊川先生は小枝のようにか細く美しい指をパチンと鳴らしました。先生はつま先からみるみるうちに粉雪のような光の結晶に姿を変え、窓の向こうに消えていきました。窓の外には春らしい霞がかった夕空が広がっていました。
「今年じゃないのかな」
豊川先生が最後に残したあいまいな表情がふとAちゃんの胸をよぎりました。でも、Aちゃんは平気でした。「別に今年じゃなくてもいいわ」。
「今、あなたは宇宙一美しい人なのよ」
夕空から豊川先生の凛とした声が聞こえてくるような気がしました。Aちゃんはガラス窓に映り込んだ自分の姿に目をやりました。あの純白のウェディングドレスはどこかに消えてしまい、元のコットンパンツとセーターという格好に戻っていました。でも、Aちゃんの内側にはつい数時間前にはなかった何かがしっかりとした形を持って存在していました。「ああ、私、きっと大丈夫なんだ」。Aちゃんは大きく深呼吸をすると、机からMacBook Airとマテ茶のペットボトルを手に取り、会議室をあとにしました。
本企画はこれで最終回です。ご愛読ありがとうございました。
※本企画の設定は豊川月乃さんの経歴を除いて、すべてフィクションです。
(構成:鈴木円香)