神奈川県・川崎の市営団地を舞台に、ひとり暮らしの高齢者たちを淡々と撮った映画『桜の樹の下』が話題になっている。決して経済的には裕福と言えず、家族とも疎遠になっている高齢者たちだが、一般的なイメージを覆すような意外な日々が綴られている。
監督は、これが初作品となる田中圭さん。28歳の女性から見た、高齢者たちが繰り広げる日常生活のありようが、なんとも興味深い。
まる3年、団地に通い続けた
――どうしてあの団地で、あの高齢者たちを撮ろうと思われたんですか?
田中圭(以下、田中):(日本映画学校の)学生時代、卒業制作であの団地を舞台にしようと思ったんですが、いろいろあって撮れなくなったんです。それで、卒業してから改めて、ドキュメンタリーとして映画にしたいと思いまして。川崎は私の地元だし、私自身も「団地」というものに住んでいたことがあるので、なんとなく親しさを覚えていたこともありました。
――実際、どのくらいの期間、のべどのくらいカメラを回しました?
田中:まる3年、あの団地に通いました。回した時間は150時間。最後の1年は編集作業をしながら週1回のペースで出かけましたね。
――高齢の男女ふたりずつ、計4人が出てきますが、あの4人はどうやって決めたんですか?
田中:はじめは手当たり次第に声をかけて、どんな境遇で今ここにいるのかを尋ねたりしていたんですが、もちろん取材を拒否される方もいました。4人出すなら、それぞれなるべく均等に扱いたいし、映画の中で役割としてバランスがとれたほうがいい。そうやって徐々に絞らせてもらいました。
――穏やかで世話好きの関口さん、部屋がゴミ屋敷状態で強烈キャラの岩崎さんという女性陣と、視力が低下して無職となり、ヘルパーさんとのおしゃべりが楽しみな大庭さんと共産党の活動をしながら昔やっていた芝居への夢をあきらめきれず脚本を書いたりしている川名さんという男性陣。確かにバランスがいいし、ひとりひとりのキャラがなんとも言えずよかった。特に岩崎さんは強烈でした(笑)。
田中:あの団地では年に1回、敬老会があるんです。みなさん高齢なので、誰が誰を敬老するのかよくわからないんだけど(笑)、とにかくみんな楽しそうに集まっている。そこでひとりすごく踊っている人がいて、それが岩崎さんでした。部屋が片づけられなくて、ゴミ屋敷状態なんだけど、関口さんが一生懸命、世話を焼いている。
死をドラマティックにしたくなかった
――そうしているうちに、団地のある方が亡くなって……。あそこはもっとドラマティックにもできるのに抑制の効いた感じになさってましたね。
田中:ドラマティックにはしたくなかったんです。人の死を大きく見せたくないというか。あの団地では毎年、誰かが亡くなっている。1年で20人以上亡くなった年もあるそうです。ほとんどの部屋にエアコンがないから、猛暑が続けば誰かが亡くなる。つまり、死が日常なんですよね。誰かが亡くなっても、他の人たちも大騒ぎするわけではない。訃報が団地の掲示板に張り出されて、「ああ、亡くなったのね」という感じ。だから、あの方が亡くなったときも、ありのままに撮りたかった。
――団地の他の方からは何か言われたりしませんでした? 撮らないでほしいとか。
田中:岩崎さんがゴミ置き場の洗濯機を運んでいたことがあったんです。それを撮っていたら、「ああいう人がいる団地だと思われたら困るから、撮らないでほしい」と言われたことはあります。でもそのときも、自治会の副会長だった川名さんがいろいろ説明してくださって。みなさんが自然と協力してくれたので、私はあまり苦労した記憶がありません。
家族と結びついていなくても「孤独」ではない
――誰にとっても、生きていくって大変なことだなとこの映画を拝見して思ったのですが、田中さんとしては、この映画でいちばん言いたいことは何でしょう。
田中:私は別に「孤独死をなくそう」みたいなことが言いたいわけではないんです。むしろ、将来、私自身がこうやって生きていくのも悪くないなと思いました。確かにみんなひとり暮らしだし、家族や親戚とは疎遠になっているけれど、だから短絡的に「孤独だ」と決めつけていいかというと、そうではないんですよね。むしろ、想像以上に明るくてたくましい。私みたいなわけのわからない人間が行っても、温かく迎えてくれたし、彼らのほどよい距離感がこの映画を支えてくれたような気がします。
影響を与えた、祖母との川崎での暮らし
――やはり田中さんが地元出身だということも、この映画には大きく影響しているんでしょうか。
田中:そうですね。川崎って独特な街だと思うんですね。私の両親も地方から出てきて、川崎で働いて、私たち子どもを育てたんです。だから団地の高齢者たちを見ていると、なんとなく生きてきた軌跡が想像できるというか。そして子どもたちはいつか出ていき、高齢者だけが残っていく。
――田中さんは今はご家族と一緒ですか?
田中:うちは母親が亡くなって、父が単身赴任で、川崎に出てきた89歳の祖母だけが残っているんですね。そのおばあちゃんは、いつも故郷である静岡に帰りたいと言ってた。今は少し認知症が入ってきて、デイサービスなどに行ったりしているんですが、なぜかだんだんおばあちゃんらしさがなくなっていくような気がして、それが寂しいんです。
――団地には自由がありましたね。
田中:そうなんですよね。みんなひとりで生きているけど、自由で明るくてたくましい。だから、私自身も、そういうおばあちゃんになりたいと思っています。強いお年寄りに憧れているんです。
――田中さんはずっと映画が好きだったんですか?
田中:ええ。映画は大好きでした。でも母親に大学には行ってほしいと言われたので、芝浦工業大学の建築学部で設計を学びました。映画と建築、両方好きだったので。設計の観点から、団地には興味をもっていましたね。そのころちょうどリノベーションが流行っていたので、リノベーション住宅を見に行ったりもして。
川崎という“独特な街”
――じゃあ、大学卒業後に映画の専門学校へ?
田中:はい。決定的だったのが、『アンドリュー NDR114』という映画です。ロビン・ウィリアムズが出ていた人間になりたいロボットの話なんです。この映画を観たときに、映画作りたいと心から思いました。この作品も、ロボットものなのですが“加齢”が関わっているんです。年を取れないロボットが、人間の恋人との交流を通して「老いて、死にたい」と思っていく。私はやっぱりずっと人の生き死にに興味があるんだと思います。
――今回、初監督作品ですが、この映画を撮ったことで、田中さん自身の中で何か変わりましたか?
田中:私はずっと川崎で育ってきて、自分には故郷がないと思っていたんです。親たちが故郷を捨ててここに来たから。親たちは生まれ育った方言でしゃべったりもしていたけど、私は川崎育ちだから、方言もない。ここではないどこかに故郷があるんじゃないかとずっと思っていた。
でもこの映画を撮ったら、あの団地もいろいろなところから来た人がそれぞれの部屋に住んで、それが団地を作り、川崎という街を作っているんだと気づいたんです。だから私の故郷は川崎なんだ、と。100パーセントそれで納得できたわけではないけれど、80パーセントくらいはそう思えるようになりました。
――今後、どういう映画を撮りたいと思っていますか?
田中:やはり強くてたくましいお年寄りを撮りたいですね。なぜか惹かれるんですよ、強い高齢者に(笑)。
中立を保って高齢者と向き合う映画
ドキュメンタリーは、監督の「目」や「感情」が意外と透けて見えるものだ。この作品は、非常に淡々と、だが誰をも否定しない、監督の温かで中立を保った「目」で高齢者をとらえている。必要以上の感情的表現はいっさいないのだが、カメラの向こうで、高齢者たちは活き活きと、そして「死」と向き合いながらもたくましく生きている。
ひとり暮らしの高齢者=かわいそう、孤独という構図から、誰もが解き放たれたほうがいいと思わされる映画である。
(C)JyaJya Films、だいふく
4月2日(土)より、ポレポレ東中野ほか全国順次公開