毎日のようにニュースで目にする児童虐待の事件。平成26年度に厚生労働省が発表した速報値(平成27年10月8日)では、全国の児童相談所が対応した養護相談のうち児童虐待相談の対応件数は、前年度比20.5%増の8万8931件。同年度に発生又は表面化した虐待による死亡事例心中を除く)は、36人にのぼった。主たる加害者は「実母」が44%と最も多く、次いで「実父」22.2%、「実母と実父」が13.9%であり、実母実父の関与は8割を超えている。
虐待は、社会には責任はないのか?
子どもにとって一番の味方であり、愛情をかけて育て守る責任がある父母が加害者になってしまうという現実。我々はこのことをどのように受け止めるべきなのだろう。そして、はたして非難されるべきは加害者だけで、社会には何の責任もないと言い切れるのだろうか。
11月に、北区の子ども家庭支援センターの主催により実施されたルポライター・杉山春氏の講演会『子どもたちはなぜ命を落としたのか~児童虐待未然防止を考える~』では、綿密な取材によって明らかになった2つの虐待死について語られた。
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杉山氏は、2000年に愛知県武豊町で起きた育児放棄が原因の3歳児餓死事件『ネグレクト―育児放棄 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫)、そして2010年大阪のマンションで二児が放置されたまま死亡した『ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)の著者でもある。今回の講演会では、おもに双方の事件の共通点と相違点から、事件が起きた背景が浮き彫りにされた。まずは、それぞれの事件の概要と経緯、そして杉山氏の考察についてまとめてみたい。
3歳児餓死事件でわかる、社会の虐待への知識不足
●愛知県武豊町3歳児餓死事件
愛知県武豊町にある大手製鉄会社の子会社の社宅の一室で、3歳の女児が餓死した事件。父親は正社員、母親は専業主婦で事件当時21歳だった。保健センターや児童相談所、市立病院ではこの母親が子どもをうまく育てられていないという情報は共有されていた。町の保健師が様子を見にいっていたものの、母親が女児に会わせなくなる。また、亡くなる4カ月ほど前に市民病院に診察のため女児を連れて行ったとき、体重が少なく皮膚もしわだらけだったため担当の医師がネグレクトを疑い、改めて連れてくるよう母親に要請する。しかし、一週間経ったあと体重が急増、皮膚も戻り、母子の関係も問題なくみえたため、「体重を量り間違えた」と思い母親への支援にはむかわなかった。
なぜ、行政側がこの親子関係の危うさを把握していたにも関わらず、救うことができなかったのか。杉山氏は次のように考察する。
「裁判では、医師がネグレクトをよく知らなかったと証言していました。体重が急激に増加するというのはネグレクトの特徴なのですが、それを知らなかった。虐待支援には知識を身につける必要を感じました。また、この事件が起きた団地では製鉄会社の転勤族の家族が多く住んでいた。転勤族は比較的高学歴で、年齢も高い。一方、事件を起こしたこの母親は、高校中退で若い。周囲の母親たちの中で孤立していた。じつはこの1年3カ月前、父親が子どもを激しく揺さぶり、子どもの脳が傷つき、硬膜下血腫を起こして意識を失ったことがありました。そのときに、一階下の転勤族の妻が病院に行く手配をするなど、色々手伝ってあげた。
しかし、そのつながりは続かなかった。この女性にインタビューをしたところ、子どものことは心配していたのですが、この両親は地元出身であり、自分たちは転勤族だったので、あまり出ていかない方がいいと思ったと話をしていました。価値観の違いが人間関係のつながりを阻んでしまう。行政、病院、コミュニティどれもがバラバラでした。もし全体が虐待に関して知識を持ち、お互いに繋がっていたら、最悪な事態は免れたのかもしれません」
大阪の2児放置死事件に見る、虐待の連鎖
●大阪西区二児虐待死事件
大阪の繁華街ミナミで風俗嬢として働く23歳の母親が、風俗店の寮であるマンションの一室に3歳と1歳半の姉弟を50日間放置、餓死させた事件。亡くなったとみられているのは、2010年6月下旬。その前にはマンションの住民により深夜子どもの泣きが聞こえてくるがその後ろに大人の声が聞こえない、という虐待を疑う通報が3回寄せられ、市の職員も5回訪問する。しかし、住民票はここになく、母子が住んでいるという確信が持てないまま、オートロックに阻まれたりして確認が取れず、二人を保護するにいたらなかった。7月30日未明、母親が勤務する風俗店の男性従業員からの「部屋から異臭がする」という通報を受け駆け付けた警察官が姉弟の代わり果てた遺体を発見した。
母親は浮気がきっかけで離婚。子どもを連れて、名古屋のキャバクラに勤務、約8カ月後に大阪の風俗店に移動する。ホストとの交際もあり、50日間子どもを置き去りにしている間、SNSに遊び歩いている様子を投稿していた。虐待事件としては最も重い判決の一つである、懲役30年の実刑が言い渡された。
この事件を取材した杉山氏は、背景について次のように語る。
「二児の母親(以下、仮名・芽衣さん)のバックグラウンドを調べていくなかで、芽衣さんは実母からネグレクトを受けており、解離的な傾向があったことを知ります。7歳のときに両親が離婚し、父親に引き取られます。父親は、仕事で忙しく、幼い芽衣さんはしっかり話を聞いてもらえていませんでした。それでも、小学校のときはそれなりの学校の成績で、スポーツもできる子どもだった。
しかし、中学生の頃に急に非行化し、家出を繰り返します。そのようななかで、解離性障がいの傾向を抱えていました。解離性障がいとは、小さいときに命に関わるような重大な体験をしていると、『自分が自分であるという感覚が失われ』るものです。『つらい体験を自分から切り離そうとするために起きる防衛反応』(厚生労働省のホームページより)です。成長するにしたがって対人関係にも問題が出てきます」
この二つの事件の母親二人に共通することは、成長の過程で、話を聞き、守ってくれる大人が周囲にいなかったこと、孤立していることだと杉山氏。
「幼い頃に暴力を受けた人たちの中には、当時の記憶が曖昧なまま子育てをする人たちがいるのですが、それは、とても困難なことだと知りました。子ども時代に暴力や死にそうな体験を経験した人の困難は、そうした経験をしていない私たちの想像を絶するように思います。子どもの育ちには周囲に頼れる大人の存在が不可欠ですが、特に、このようなバックグラウンドを持つ人たちが子どもを抱えて生きていくためには、その人の立場に立って考えてくれる大人が必須です」
どのようにすれば、この幼い子どもたちの死を防ぐことは可能だったのだろうか。
「たとえば、芽衣さんの場合、非行で鑑別所に入っていたとき、解離性障がいの疑いがあると指摘を受けています。しかし、芽衣さんの父親は解離について全く知らず、治療をするという考えはなかったと証言しています。芽衣さんの心理鑑定を行った、臨床心理学・虐待の専門家である西澤哲(山梨県立大学)さんに話を聞いたところ、もし芽衣さんが10代半ばまでに信頼できる大人と関係を築くことができていれば、もしかしたら、治療は可能だったかもしれないと話していました」
武豊町と西区の事件で虐待者となった二人の母親は、ある時期までは子どもを可愛がり、子育てを楽しんでいた。もし何かの歯車が噛み合っていれば、幼い命は失われずに済んだのではないだろうか。
大人の手がなければ生きていくことができない幼い子どもたち。その子どもを無残な死に追いやる虐待者になったとき、親たちは、ときに“鬼畜”と呼ばれ嫌悪感を持って語られる。しかし、現実にこうした事件が後を絶たないなか、他者や社会が閉鎖的な親子関係にどう手を差しのべることができるのか、思考していかなければならないはずだ。