「自分は男性のフリをしている」と気づき、男性の格好をやめた安冨歩さん。新刊『ありのままの私』(ぴあ)のオビには、フルフェイスの長いヒゲが顔を覆う“before”の写真と、ウェーブがかかった明るい色の髪にワンピース、メイクを施した顔で晴れやかにほほ笑む“after”の写真が並べられています。同一人物とは思えない! しかしこれは“女装”ではありません。男性のフリをやめた自分が心身にあった服を着るのは「女装=男性が女性の服を着ること」ではない……。そこで“女性装”という言葉を生み出し、出演したテレビでは“男装をやめた東大教授”として紹介された安冨さんと一緒に、「自分らしさとは何か」を考えます。
男性が自分の顔や身体に無頓着な理由
——本書では、まず女物のパンツ(ズボン)からはじまり、スカートを履き、メイクをするようになり……と、段階をふんで女性装にスイッチしていく様子が写真とともにつづられています。SNSにこれらの写真をアップされたときは、女性たちからずいぶん反響があったそうですね。
安冨歩さん(以下、安冨):いまそのときの写真をふり返ると、ヒゲが目立つし表情が硬いしイマイチなんですけど、女性の友人や知人が「きれい!」「おしゃれ!」といってくれたおかげで勇気づけられました。一方、男性は何もいってこないですね。基本的に無視です。「なぜそんな格好をしているんですか?」と訊いてくることはあっても、それに対する自分の感想などは一切口にしません。自分たちを否定された気になるのか、あるいは、自分も願望があるのに我慢しているからか……不思議です。
——安冨さんは自分の体型や目鼻立ちの特徴に対して早くから敏感でした。でも一般の男性は、自分の顔や身体について無頓着であり、語る言葉も持っていないように見えます。
安冨:19世紀までは洋の東西を問わず男性もみずから装い、化粧していたんですよ。それがなくなったきっかけは、第一次世界大戦だと私は考えています。それまで、闘いの場は男性にとって晴れの舞台でした。生きるか死ぬかのなかでも男たちは着飾り、軍服もかっこよかった。だけど戦争が1日に1万人が死ぬものに変容し、そんな余裕もなくなりました。敵が見えない戦いになったのも大きいですね。見せる相手がいないから、かっこつけるのもやめたんです。
自分らしさでなく、男性の視線を気にした美は危険
——反対に女性は、自分の身体性にとても敏感です。これはなぜでしょうか?
安冨:自分らしい美しさを求めてそうなっている場合と、男性の視線のなかに自分を置きつづけることでそうなっている場合とがありますね。前者はとても健全ですが、後者はものすごく危険! なぜなら、自分じゃないものになってしまうからです。私はいまがほんとうの自分だとしたら、男性のフリをしていたときの自分はぶっ飛んでいたことになります。人生の長い期間をそうして過ごすうちに、自分自身が失われていきました。
女性装をするようになって気づいたことがあります。私はメイクするのが大好きなんですけど、それは自分自身が潜在的に持っているものを表現できる重要な手段だから。メイクは、自分の特徴を引き出すためにするもの。それなのに、コンプレックスを隠そうとして、自分ではないものに向かって化粧をするとヒドい顔になります。
わかりやすい例が、女装メイクです。男性が女装するときにありがちなのは、鼻を低く、あごを短く、頬をふっくら見せるメイク。でも、本書でも書いたように、いま現在“美人”とされている顔はたいへん男性的です。面長で、鼻がすっきりしていて、あごが細い。だから男は、男性的な部分を強調するほうが美人になれるんです。なのに、コンプレックスを隠したい一心で、女性的なかわいらしさを目指してメイクをすると、かえって男性っぽさが目立ちます。これはもう、自分自身ではなくなっています。
化粧で“化ける”のではなく本来の自分を取り戻す
——いまはローティーンのころからメイクをしてきた女性が多いです。「整形メイク」という、まるで整形したかのように劇的に顔が変わるメイクも提案されていますが、素顔とメイク顔のギャップが大きいほど、整形へのハードルが下がると指摘する声もあります。
安冨:それはもう、自分とは別の何かになってしまっていますよね。化けている姿が自分で、化けていないほうは自分ではない……。怖い話ですが、私はその気持がわからなくもありません。女性装でメイクをするようになって、すっぴんの自分を鏡で見るのに勇気を必要とした時期があるんです。赤ちゃんのときの自分が、ありのままの自分。そこから大人になるまで劣等感を植えつけられたり傷つけられたりして、肉体も魂もぼろぼろになるんです。50もすぎれば、もうズタボロ。だから、赤ちゃんのとき自分が持っていた本来の魅力を、メイクで思い出そうとしているのです。
だけど、そうやって傷を隠して本来の自分に戻るメイクをしているうちに、変化がありました。素顔が、メイクした顔にだんだん近づいていくんです。だから最近は、メイクを落としても怖くなくなりました。連れ合いのお嬢さんに教えてもらったのですが、アーティストのきゃりーぱみゅぱみゅさんも、どんどんすっぴんがメイクをした顔に近づいていますね。彼女はコンプレックスの多い少女時代を過ごしていたように見えますが、ああした極端なメイクで自身を表現しているうちに、どんどん自分が回復していったのでしょう。アーティストが表現を通じて成長していく姿は、人々にインパクトが与えます。世界中で人気があるのも納得です。マツコ・デラックスさんも3、4年前の姿と比べると、メイクを通じてどんどんきれいになっているのが見て取れます。
日本企業はマツコ・デラックスのような人を排除してきた
——本書では、マツコ・デラックスさんの人気を“無縁の原理”から解き明かしています。マツコさんは「差別されているがゆえに自由である」から、踏み込んだ発言をしても叩かれない、むしろ歓迎されている、と指摘されました。
安冨:日本の芸能界には、常にそういう人がいます。たとえば、間寛平さん。いつも人間の本質や平和、健康などについてものすごく深いメッセージを発信しているにもかかわらず、ちょっとおかしな人という位置づけなので誰にもいやがられません。壇蜜さんもそうですね。セクシータレントは基本的に、マツコさんのような“オネエ”と同じ位置づけだから、彼女がどんなことをいっても本気で怒る人はいませんし、かえって話に耳を傾けてもらえます。
日本の企業にも、かつてはそういう“無縁の人”がいました。会社のなかにある暗黙のルールから外れる人で、だいたいは会社のトップと同期生とかで仕事がぜんぜんできないと思われている人。ルールを破ればボコボコにされるはずなのに、彼らだけは「なんなのアイツ!?」と思われつつも、「ま、いっか」となる。そして、会社が危機的な局面に陥ったときに活躍するんです。そういう特殊な存在を排除しつつ包摂することで、日本の組織は大多数を均質なルールの基に置くことができたのです。“無縁の人”を排除しながら、内包する。ところが、1980年代に入るとそんな人を本当に排除するようになりました。だから、日本の企業は弱くなったと私は見ています。
「多様化だ、ダイバーシティだ」といいながら、ルールからはずれる“無縁の人”を排除するようになった日本の企業。そこに“女性の働きにくさ”を解くカギもある、と安冨さんはいいます。後篇は、かつては男性として銀行に勤め、バブルに向かう社会の異常性を目の当たりにした安冨さんに日本社会における男女格差の根源にあるものをお話いただきます。