幼い頃から、両親や教師を通じて「食べ物を好き嫌いするのは恥ずかしいこと」だという教育を受け、通念を植えつけられているが故でしょうか。特定の食べ物を厭うことには、『贅沢』『我儘』『大人げない』というネガティブなイメージを抱くとともに、罪悪感さえ感じてしまいます。その一方で、“飽食世代の傲慢さ”と言われようとも、自分で金を稼いでいる限り、「何を食べたいか、食べたくないか」という超個人的な事柄に関して、他人様に口を出される筋合いは、まったくもってないという気持ちもあります。
しかし、好き嫌いがないほうが生きやすいことは確かです。それを見越して、幼いうちに「好き嫌いはよくない」という教育を施すことにも、十分に納得ができますが、しかし、好き嫌いを矯正することに成功する人ばかりではありませんし、たんなる好き嫌いとは違う次元で、食べ物にまつわる“生きにくさ”を抱えてしまう人もいます――というわけで、今回登場していただくのは、食べ物に関してのみ潔癖症だという女性です。
H美:わたし、ちょっと潔癖症なんですよ。人の作ったおにぎりが食べられないし、沸かした麦茶も気持ちが悪い。家庭菜園の野菜とかも無理だし、釣った魚なんて絶対に無理。というか、魚に関しては、スーパーのパックに入った切り身じゃないと厳しいかも。
――人が入れた紅茶は?
H美:あっ、それは平気ですね。ホットティーなら大丈夫。でも、アイスティーは無理(笑)。たぶんイメージなんですよね。既製品のイメージがあるものを、手作りしたものが、なんか無理なんです。
――食べ物だけですか?
H美:うん、そう。別に、エスカレーターのボタンが押せないとか、つり革持てないとか、外のトイレの便座に座れないとかはないですね。銭湯も平気。とにかく口に入れるものだけ。でも回し飲みも、鍋も大丈夫なんですよね、自分でも不思議だけど。
無理して食べようとしたら嘔吐して彼氏と喧嘩
――外食は大丈夫なんですか?
H美:そこが難しいところで、ファストフードは全然大丈夫なんですよ。むしろ安心感がある。ファミレスも平気だし、縁日の屋台の焼きそばとかも食べられる。素人の作ったおにぎりは無理だけど、職人さんが握ったお寿司は大丈夫。けど、本場っぽすぎるタイ料理とか中華料理とか、よく知らないスパイスを使っている料理は抵抗がある。あと、海外だとホテルのレストランとファストフード以外は基本的に無理。信用ができない。
――信用って何に対してですか?
H美:うーん、清潔さというか安心感? でも昔は大丈夫だったんですよね。彼氏と旅行で台湾に行ったことがあって、その時に街の食堂みたいなところに入ったんです。で、その時に「あ、これ無理」って気が付いて。無理して食べようとしたものの、うえって嘔吐しちゃって飲み込めない。で、彼氏と喧嘩になりました。
なんか、そういうの平気な人って、ダメな人の気持ちが全然わからないじゃないですか。精神論というか「克服すべし!」みたいに煽ってくる。けど、こっちにしてみたらそんなことを強制されたくない。「美味しいのに勿体ない」とか言われても、無理なものは無理なんだよ! と。
潔癖って“こだわり”の一種
――じゃあ、直すつもりはない?
H美:ないですね。というか、直せる気がしない。好き嫌いとかよりも、もっと生理的なものが関わってきてるんで。
――原因とかって心当たりありますか?
H美:うーん。本当に突然「あっ、わたし、これだった」って気が付いたみたいな感じで。別に親も潔癖症とか、むしろ不潔だったとかはなくって、本当にある時、「これ、無理だわ」って。でも、気が付いてから、ちょっと加速してる感じはあるんですよね。無理なものが増えていってる。
わたしが思うに、潔癖って、“こだわり”の一種なわけですよ。で、年を取るにつれ、“こだわり”って増えてくるじゃないですか。もしかして、もっと年を取ったら、“こだわり”とかどうでもよくなるのかもしれないけど、今はむしろまだその“こだわり”が増えていく時期っぽい。で、この“こだわり”は嗜好ではなく嫌悪に基づいているものだから、直そうとしても直せない。だから、どうしようもない、というのがわたしの結論ですね。
人間の持つ三大欲求のひとつでもあり、また、生活する上で欠かせない『食べる』という行為。恋人とのデートや仕事上の会食、職場の同僚とランチなど、人と関わるシーンにおいても多く登場するが故に、ここに“生きにくさ”を伴う“こだわり”を持ってしまうとなかなか困難です。もしも、H美さんと同じような悩みを抱えているのならば、専門家による治療を試みるというのもひとつの手かもしれません。