アラフィフ作家の迷走生活 第53回

大人に必要なのは、好きな人より便利な人

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小説家の森美樹さんが自分自身の経験を交えながら、性を追及し、迷走する日々を綴るこの連載。年を重ねるにつれ、「あと何回できるか」が不安になってきたという森さん。そんななかで魅力が増した、異性との”好き”を介さない付き合い方とはどのようなものなのでしょうか。

*本記事は『cakes』の連載「アラフィフ作家の迷走性(生)活」にて2019年12月21日に公開されたものに一部小見出しなどを改稿し掲載しています。

結婚していようが、老人になろうが、人は誰かを好きになる。しかし年齢を重ねると、好きという純粋な気持ちだけでは相手を選べなくなるだろう。結婚していて新たに恋をした場合は、夫や妻のことを考慮しなければならない。

外に刺激や恋や違う形の愛を求めたくなるのは人としての性だが、現状維持したい夫や妻に対しての愛があるなら守るべきである。夫や妻には愛想をつかしているけれど子供のために離婚はできない、という場合もやはり波風は立てないほうが無難だ。年配になってからの恋は、自分の体力や精神力を加味して行うべきだろう。

そうなると、好きになる相手は秘密を遵守してくれる人や頻繁に連絡を取り合わなくていい人、年齢や環境が似通っている人、などが望ましい。もっといえば、セックスの趣味趣向が合っている人がベストだ。だって、探り探りやっている暇も時間もお金もないのである。50歳の足音が近づいてきてから私、ひしひしと感じるのだ。あれこれ手間暇かけていられないよ、てっとり早く恋愛モードにならないと死んじゃうよ、と。

若い時は成就までがゴールだったけれど

最近は、写真だけでイエスかノーかジャッジするマッチングアプリもあるようだ(直感を鍛えるゲームみたい)。以前の私なら、そういうのって即物的で好きじゃないな、なんて斜め見していたかもしれないが、写真の印象だけで会ってみて、やってみて、サヨナラかアゲインか決めるのもアリと言えばアリかもしれない、と最近は思うようになった(やったことはないし、とりあえずやらないけれど)。

若い時は、相手の思惑を推し量ったり、気を持たせたりと、駆け引きが楽しかったし(たいてい失敗したが)、成就までがゴールだった。それ以降は惰性みたいなものだ。私自身に自覚はなかったが、自尊心が満たされればよかったのだろう。昨今はもう、ゴールの先は惰性でも次のステージでもなく、もしかしたら死?というのが洒落じゃなくなってきているので(まだ早いかな)、ゴールの余韻をできるだけ長く伸ばしたいのだ。

私は年下の若い男性には興味がない。可愛いし新鮮!と感動するのだが、あくまで傍観者としての立場だ。人として惹かれるのは同世代か年上の男性である。不潔以外であれば、ハゲだろうがデブだろうが疲れていようが無関係である。その人自身に何らかの魅力があればいい。

私と同感覚で、ピチピチの若い女性より酸いも甘いも経験した熟女を求めてくださる男性もわりといて、まあ、なんとなくいい感じになったりする。そうなると、若い人々の獣じみた衝動とはまた別に、ことにおよぶのが早い。「死ぬ前に!」「とりあえずいい時間を早く過ごそう!」「いつまでお付き合いできるかわからないし!」みたいな(これも獣っぽいかな)、まるで戦地に赴く前のようなテンションで、しかし表面上はスマートに段取りができていく。

好きという気持ちよりも優先したいもの

とはいえやるべきことは同じ、熟年同志、段取りは承知しているので目的が一致したならあとはさくさく進む。1回やれば相性もなんとなくわかるので(身も心も熟しているからね)、次がありかなしか、あるいはどこまで突っ込める相手なのか、変態性の度合い等々、これまた視線の動きや最小限の会話だけでことが運ぶ。実に便利である。足りないものは、好きという気持ちくらいだ。

え? そこが一番大事なんじゃないの? と疑問視するあなた。ええ、私だって本心ではそういったピュアな気持ちこそが大事で、究極の幸福だと身に沁みてわかっていますとも。でもね、とにかく熟年や老人には時間がないのだ。あと何回セックスできるかどうか、わからないのである。もう、好きという気持ちよりも体感が優先になっていく。

人間は勝手なもので、体力が有り余っていた頃は「別にセックスなんてどうでもいいかな、いつでもできるし」とないがしろにしていたのに、いざ体力に不安が出てきたとたんに「やれるうちにやっておかねば」みたいな強迫観念に駆られてしまう。それこそ、セックスなんて別にやらなくても困らないのに。むしろ体力や気力が消耗するのに。

SM用の首輪をして現れた知人男性

私の知人男性(御年70歳)が、ある日首輪をして現れた。SM用の首輪である。それ以外は紳士然とした格好と振る舞いで、特に変わったこともないのだが、表情が明らかに違う。年相応に枯れてはいるが、頬が少年のように紅潮している。

聞けば、離婚→退職(退職→離婚だったかな)を機に、ずっと憧れていたSMクラブに入り浸り、お気に入りの女王様に操をささげたという。首輪は女王様への忠誠の証なのだ。「なんか、今、すっごく楽しいんだよね」と目をきらきらさせて語るではないか。お財布にはバイアグラを忍ばせていて「でも、飲んでも勃起したりしなかったりだけどね」と照れ笑いしつつ、まるでお守りみたいに愛おしそうに撫でている。

バイアグラも持病がある方にとっては危険を伴う。そんな危険をおかしてでも、女王様とのプレイを優先したいのだ。なんてかっこいいのだろう。誰にも迷惑をかけず、自分の欲求を満たしている。自分で稼いだお金で、女王様を買う。きっとずっと夢だったのだ。SMの世界や、女王様との情事が。これもいわば、便利な関係、便利な間柄ではないだろうか。

以前は嘲笑っていたけれど

人はよく、いい歳をして、とか、狂い咲き、とか、破天荒な熟年や老人を揶揄する。私も以前は揶揄する側だった。時折テレビやネットで、老人同士の痴情のもつれや三角関係などが元で起こった殺人事件が報道されるが、以前の私は「あーあ、最後にバカやっちゃったね」と嘲笑っていたのだ。ところが今はどうだろう。もう感動しかない。

そこには最後ならぬ最期を覚悟した熟年や老人のエネルギーが垣間見える。単なる色恋沙汰ではなく、命の灯(本当に殺しちゃだめだけど)が関連している気がしてならない。「明日死ぬかもしれないから。頼む、1回やらせてくれ!」「最後の(最期の?)女(男)になってくれ!」と懇願されて、断られたから、つい刺してしまった。「あとからすぐに自分も死のうと思ったんだよぅ、でもこわくてできなかったんだよぅ」と泣く泣く語るような事件が本当にあると思う。案外あちこちにあるのではないか。フラれた熟年あるいは老人同士が結託して罪を隠蔽したりね。

50歳の足音が近づいてきたからと、急に死を意識するのは軽率かもしれない。早すぎるかもしれない。でも本当は、死は生と表裏一体だ。ただ、年齢を重ねていくうちに、輪郭が明確になってくるだけである。

若い人だって、明日死ぬ運命かもしれない。死の輪郭が際立ってきた時から、私は自分の体力や気力を考慮し、好きな人もほしいけれどそれと同じくらい便利な人が必要ではないかと考えるようになった。

私も誰かの便利な人になれたらいいな

そして、私も誰かの便利な人になれたらいいなと、ボランティアみたいな気持ちもわいてきた。誰かが私に性的魅力を感じてくれるなら、好き嫌いを超越して、お互いがやりたい行為をしてもいいのではないか。会いたい時に会って、決してわがままを言わず、困らせもしない。相手に家庭があるなら家庭を優先してもらい、こちらの家庭や仕事も尊重してもらう。

限られた時間の中で、無邪気に本気で遊ぶ。恋愛や情事というよりは、思い出作りのような、旅のしおり(死出の旅)の最終ページに一筆加えるような趣。いい意味で後腐れがないから、今まで恥ずかしくて言えなかったこと、やりたかったプレイもしてくれるかもしれない。当然大人だから、秘密厳守だ。冗談じゃなく、お互い墓場まで持っていく。

便利な関係というと、愛がないように聞こえるだろうか。でも、私が言ったような便利な関係は、それぞれが自立していないと成り立たない。どちらもよりかからず、無理をせず、負担をかけない。決して、依存してはならない。

便利な関係には、便利な愛が存在する。「こんな身体でいいのなら、どうぞお使いください。あなたの身体も使わせていただきます」といった崇高な愛、そして気持ちだ。単なるM気質? と笑われてもいいのだが、年齢とともに広がる愛、と言えなくもないのである。

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