小説家の森美樹さんが自分自身の経験を交えながら、性を追及し、迷走する日々を綴るこの連載。今回は、「別れ」について。森さん曰く、好きな気持ちだけでは一緒にいられない大人の恋には、「別れのセオリー」が必要だそう。ところが一方で、セオリーなど無視した、別れの”最終形態”を体験したい気持ちもあるそうでーー?
*本記事は『cakes』の連載「アラフィフ作家の迷走性(生)活」にて2019年12月7日に公開されたものに一部小見出しなどを改稿し掲載しています。
別れとは、ある日突然やってくるもの。ではない。
大人の皆様なら納得していただけると思う。別れ、主として男女の別れはある日突然やってくるのではなく、暗闇のようにひたひたとやってきて、それをいち早く察知したほうが率先して切り出す。「付き合いも佳境を越えて、穏やかな砂漠みたいになってきたから、ここらでお互い別の地を目指そうか」みたいな感じだ(一緒にオアシスを探す=結婚?という道もあるけどね)。
さもなくば、恋人という空間がひび割れ、違う視界(他の異性の陰)が差し込んでくる。「このまま彼(彼女)といるのも楽だけど、あっちの景色も見てみたい(楽で見慣れた景色を選ぶ=結婚?という道もあるけどね)」と、なんとなく納得した上で別れる。
どちらの場合も、誰かに強制されて別れるのではない。自分達で決定打をくだし、別れるのだ。比較的平和な別れ方である。当然だが、別れ方は二極化していない。出会い方だって千差万別なのだから、別れ方だってそうだ。とはいえ心情的には上記の2パターンに絞られるのではないだろうか。
別れの最終形態
しかし世の中には、別れの暗闇や亀裂をものともせず、とことんまで別れと戦ってみようとする人々がいる。これを仮に、別れの最終形態と呼ぼう。腐れ縁とか泥沼とか称されたり、あるいはそういう段階を越え、警察や病院や法がからんでしまったパターンだ。
こうなるともう、「あなたのことが好きだから」ではなく、「あなたのことが好きな自分をとことん試してみたい」とか「私のことをあなたがどこまで好きなのか確かめてみたい」とか、共依存など、もはや自分本位あるいは自分劇場といった、世の中の理を無視した関係性な気がする。
「そんなバカな、私は彼が好きで好きでたまらないから離れたくないのよ!」と抗議する人もいるでしょう。でも、彼があなたのことを好きで好きでたまらない、わけじゃなかったらどうします? 偶(たま)さか、何らかの事情であなたと別れなければならないとしたら。それが彼の本心だとしたら。本当に彼が好きなら、彼のために別れるのが筋ではないでしょうか。
若い頃よりも複雑な事情が渦巻く大人の恋愛には、別れのセオリーも必要だ。出会った時から別れを考慮するのは悲しいかもしれないが、だからこそ充実した時間が過ごせる。私は、出会っていい感じになりそうだと思った瞬間に、別離の妄想をふくらませる。こんなにいい人だから、いい別れ方をしたい。いい別れ方ができるように、持っていきたい。持っていく努力をしたい、という具合だ。
そうはいっても、のめりこめばのめりこむほど、いい別れができないのも知っている。出会った、過ごしたときめきに比例して、悲しみやつらさも大きくなるのだから。
女性は別れの気配をいち早く感じる
別れの気配をいち早く感じ取るのは、男性よりも女性だろう。妻の浮気に気づかない夫は大多数だけれど、夫の浮気は瞬時に見破られる。「いやいや、俺は大丈夫」と安心しているあなた、妻は単純にあなたを泳がせているか、「問い詰めるのも面倒くさいし、給料は入れてくれるからいいか」とか、「セックスしなくていいからラク」と黙認しているだけである。
まあ、そんなわけで、音もなく近づく季節の変わり目、みたいな別れの気配を女性は肌で感じ取り、さてどうしようと男性の知らないところでひとり悩んだり、算段をする。ご多分にもれず、私も、大人になってからはいつも先に別れを切り出してきた。なぜか。傷つくのがこわいから。
一度だけ、男性から別れを切り出されたことがある。その人は私よりも15歳年上で、付き合った年月もわりと長かった。ほどよく落ち着いてきて、刺激はないけれど居心地がよかった。それなのにどうして別れたのか。
ケンカをしたわけでも、浮気をした、されたでもない。ただ、相手が私を旅立たせてくれたのである。というと、なんだかかっこいいのだが、ようするに私が彼の手に負えなくなったのだ。性のよろこびにめざめちゃった、とでも言いましょうか。
別れる間際、彼が体調を崩し、入退院を繰り返すようになったのも原因の一端かもしれない。「もう君は別の人と付き合いなさい」みたいな言葉を最後に、私の前を去った。私も追わなかった。私も心の奥底で、穏やかだけれどどこか物足りない、と思っていたのだろう。ただ、彼は人間的にも尊敬できる人で、私にいろいろなことをおしえてくれた。だから、別れはつらかったし、きつかった。でも、すこぶるいい別れだったと感謝している。
恋愛には正解も不正解もないけれど
私は恋愛上手ではないし(恋愛が上手な人っているのでしょうか。私は恋愛マニュアル本自体が信じられないのです。だって、恋愛って人の数だけあって、人の数だけ多様化していると思うから。正解も不正解もないと思うから)、恋多き女でもない。だから、ときたま好きな人ができるとびっくりするくらいうれしいし、同じくらい疲れる。さらに、別離を想像して苦しくなる。
先程、別れの気配を季節の変わり目にたとえたが、浮気や価値観の違い、他に好きな人ができたなど、わかりやすい理由に突入する前(季節が変化する前)に、女性はうっすら気づいてしまう。終わりの予感というか、終わらせたほうがいいという感覚。相手に起こり得ることは勿論、自分に起こり得る気持ちや環境の変化をうっすらと感じてしまう。
いやいやだからそんなことはないよ、と否定するあなた、かつての別れを思い出してみてください。「もう少し前に別れていれば、傷は浅かったかもしれない」と思い当たるふしがないだろうか。
物事には、潮時というのがある。そして人には(動物には)潮時を察知する能力が備わっている。私は、相手や自分の言動に違和感を覚えたり、なんとなく物事の進みがまどろっこしくなった時に、「いよいよかもしれない」と覚悟を決める。終わりという未来が見えたかもしれない、と感じた時に、なるべく早く別れを告げるようにしたいのだ。
好きという純粋な思いだけではくっついていられない
終わりという未来なんか、誰だって見たくない。そもそも終わりという未来は何なのか。私にとっては、「これ以上付き合ってもお互い成長できないかな」または「相手にとって負担になっているかもしれない(たとえ相手が気づいていなくても)」もしくは「私の生活において彼はもう支障でしかないかもしれない(支障になってもいいのだが、そうなると仕事ができなくなる)」等々、好きという気持ちを除いて、大人として困る事態に陥りそうな時だ。
好きという純粋な思いだけでいつまでもくっついていられるとは、到底思えない。ドライで冷たいと批判されるかもしれないが、大人なのだから、好き以上に相手を必要だと切望する何かを求めたいし、提供したい。さらに、付き合いには責任を持ちたい。たとえ遊びだとしても本気で遊びたいし、成長したいし、その人の役に立ちたい。
好きプラスαな存在でいたいし、存在でありたい。好きという気持ちだけでくっつく関係は、セフレ(お互いの体が大好き)くらいだろうか。私は、純粋にセックスだけ楽しみたいという関係性は、望んでいない。そこにも愛は存在するだろうが、私はその人の心ごと関係したいタイプだ。とどのつまり、不器用なのだろう。
私は傷つくのがこわいので、前述した例外を除いて、別れは自分から告げている。そうするとたいてい、引き止められる。ぶっちゃけてしまうと、私は引き止められるうちに別れたいのだ。引き止められた、という記憶が、私の悲しみをいくらか緩和してくれる。
傷つくのがこわいなんて、本当に憶病で嫌になってしまう。本当は私だって、腐れ縁とか泥沼とか、やってみたいのだ。警察や病院や法がからんでも、周囲に迷惑をかけても、「だって離れたくないんだもん!」と半狂乱になって叫んでみたいし、「だって離したくないんだよ!」と軟禁されてみたい。「むちゃくちゃ傷ついたし、相手も傷つけたし、二度と会いたくもないけれど、でも我が人生、悔いなし!」な恋愛をひとつでもしてみたい。
結局、しれっと別れを告げても後悔が残るし、めそめそ泣いてもいる。でも、半狂乱にはなれないし、軟禁もされたくない。だって、自分が壊れるのが一番こわいから。
ゆえに、「大人なんだから、別れのセオリーくらいは守ろうね」なんて、もっともらしく掲げてしまうのだ。