アラフィフ作家の迷走生活 第48回

日常にささやかなSとMを

日常にささやかなSとMを

「アラフィフ作家の迷走生活」
の連載一覧を見る >>

小説家の森美樹さんが自分自身の経験を交えながら、性を追及し、迷走する日々を綴るこの連載。今回は、SMについてです。激しいプレイのイメージが先行しがちな世界ですが、そこにはSとMでも割り切れない、人の奥深さが表れているようです。

*本記事は『cakes』の連載「アラフィフ作家の迷走性(生)活」にて2019年10月12日に公開されたものに一部小見出しなどを改稿し掲載しています

最近、SMに興味がある。行為そのものよりも、むしろ行為を通じての精神性にそそられるのだ。まあ、私自身は痛かったり汚かったり(一般的な基準という意味での痛さや汚さです)のプレイは苦手だし、そもそも惹かれないのだけど、そういった特殊な快感を求める人々に、私は心酔してしまう。

人間は突き詰めれば皆変態変人

世間では日陰の道とされ、ご自身でも特殊というか変態変人と自覚した上で、自分軸をブレさせずに堂々と歩くさまを見ていると、私の中に隠された血が騒ぐのだ。ぶっちゃけ、人間は突き詰めれば皆変態変人だと私は確信しているのだが、あからさまに白状する人や自分の中の癖を認められる人はまだ少ない。

とにかく、磁石にS極とN極があるように、人間にもSとMが共存していて、私にもそれがあるのだな、と実感する瞬間である。私がどっちのタイプというか、どっちの性質がより強いのかというのは、まだ探求中なのだけど。

ところで、セックスにおいて、男の人って大変だなと常々思っている。セックスのプロであるAV男優だって大変だろう。余談だが随分と昔に、原宿でAV女優にスカウトされたことがある。なぜ原宿でAV女優? と訝ってしまうが、その日、私は妙に露出度の高い格好をしていた(ケラリーノ・サンドロヴィッチが結成していた、かの『有頂天』のライブだったのだ)。

当時、私の胸は無駄にでかく、顔はすこぶる地味だった。つまり、胸があるからなんとか使えるかな、というレベルである。誤解のなきよう補足するが、プロ意識を持ってご活躍しているAV女優さんはこの類ではない。私が言っているのは、単発バイト感覚の使い捨て要員である。いわば、胸や尻や他の部分か、まあ、見せられる部分があって、秘部(女性器)があれば1本くらいAV作れるよね、という感じ。

片や男優はそうはいかない。女の人を感じさせて、女の人の身体をいかに美しく見せるか気を配り、さらに適切なところで射精しなければならない。プロの世界でなくとも、実生活においてだって、男の人は大変だ。

「今までおまかせして申し訳ありませんでした」

以前お付き合いしていた男性に、「たまには攻めてみて」と提案されたことがある。マンネリ打破と見せかけて、男性側が疲れたのかもしれないし、たまには違う刺激を得たいのかもしれない、と私は察したので、納得しつつやってみたのだ。

不慣れなもので、どこをどうするか、何を何するか、よくわからなくて、本当に男の人って大変だな、今までおまかせして申し訳ありませんでした、と心で謝罪した。とりあえず、適度にでっぱっている部分をつねってみたり舐めてみたり、脇の下をさわさわしてみたり、フェザータッチの真似事をしてみたり、局部に到達する前の焦らしプレイを自分なりに実験したのである。

試行錯誤を繰り返すうちに、男の人をよろこばせたいという愛が、だんだんと男の人を征服してみたい思いにすり替わり、やがてSだと思い込んでいた男の人がMっぽく身体をよじらせたではないか。何だ、この人、こんなに可愛い部分を隠し持っていたのか。と、思うと同時に私の中の隠された部分もあらわになった。征服欲というか征服愛である。ただ虐めたい、こらしめてやりたい、という興味本位だけの感情ではない。れっきとした愛がベールになっているから、プレイにも深みが出る。

すっかり調子にのった私は、あれやこれやと無邪気に男の人の身体で遊んでいたのだが、男性側もMの快感や境地を求めていたのではないか。男女平等といっても、男の人はまだまだ表舞台では虚勢を張っていなければならないし、威張り散らさなければならない立場もあるかもしれないし、女の人よりは気を抜く時が少ないし、気の抜き方が下手だ。だいたい男の人は総じてマザコンなのだから(悪い意味で言っているのではありません。これは当然だと私は思っています)、甘えたい願望があるのだ。

外面と内面の逆転現象が起こるSM

SとMは別物ではなく、表裏一体だと思う。プロの世界でも、女王様は優秀なMでなければ務まらないというし、実際、女王様研修(という名前かどうか定かではありませんが)でも、まずMをやらされる。現実的に、どの程度のプレイまでがOKなのか、Mをやってみないとわからないだろうし、下手したら死んでしまうプレイも多々ある。SM用の鞭は大げさに音が出るように作られているし(振るのが難しい)、蝋燭もさほど熱くはない(刺激になる程度には熱いけれど)。

冒頭で申し上げたように、SMは一般的なイメージでは痛いとか汚いという言葉がつきまとうものの、いざプレイというかそれこそ世界に入ってしまえば、精神的で高尚な戯れだ。MはマグロのMではないから、ただぼさっと寝ていたり、ご主人様のいいなりになっているだけではない。どうすればSのS性を思いっきり引き出せるのか頭を使ったり、勘でサッとこたえたりしなければならない。

Sもまた然りで、MをもっとドMにしていくよう、頭をひねったり技を磨いたりする。そうこうしているうちに、どっちが鞭で打っているのか打たれているのか、わからなくなってくる。鞭を振り回しているSは疲れてくるし、身体をくねらせているMは疲労困憊していくSを観察しているのが快感となり(打たれている快感ではない。じょじょに痛みも麻痺するだろうから)、のたうち回るふりしてSを振り回し(遠く遠くへ逃げたりしてね)、内心で嘲っていたりする。

外見的にはSがSでMがMだが、内面的には逆転現象が起こるというわけだ。SMは過激な行為をしなければ得られない快感や境地と思うかもしれないが、日常でもこれは起こり得るし、あえてその快感や境地に自ら持っていくこともできる。

プレイ自体はあくまで表面上で、大切なのは中身

女の人を征服したい、でも女の人に甘えたい。男の人に征服されたい、でも男の人を下僕にしてみたい。人には様々な欲求があって、わかりやすく具現化したいい例がSMだ。プレイ自体はあくまで表面上で、大切なのは中身だ。

壇蜜さんが主演の映画「甘い鞭」でも、監禁されたトラウマからMになってしまった主人公(壇蜜さん)が、最後は究極のSになっている。マニアックなプレイばかりが目立つが、作品が伝えたいのは精神的なSとMだと私は解釈した。決して別物ではなく表裏一体。

SとMのバランスは人それぞれだろうけれど、どんな自分も否定せず受け止めて、新しい世界を構築していけたらいい。何が普通で何が普通じゃないか、変態とか変人とか、もうどうでもいいのだ。自分が自分らしく、楽しくかろやかに生きていければ、誰に後ろ指さされてもいいだろう。振り向かないで前進だけしていれば、後ろ指など見えないのだから。

日常にささやかなSとMを。これが最近の私のテーマである。

SHARE Facebook Twitter はてなブックマーク lineで送る

この連載をもっと見る

アラフィフ作家の迷走生活

小説家の森美樹さんが自分自身の経験を交えながら、性を追及し、迷走する日々を綴る連載です。

この記事を読んだ人におすすめ

この記事を気に入ったらいいね!しよう

日常にささやかなSとMを

関連する記事

編集部オススメ

2022年は3年ぶりの行動制限のない年末。久しぶりに親や家族に会ったときにふと「親の介護」が頭をよぎる人もいるのでは? たとえ介護が終わっても、私たちの日常は続くから--。介護について考えることは親と自分との関係性や距離感についても考えること。人生100年時代と言われる今だからこそ、介護について考えてみませんか? これまでウートピで掲載した介護に関する記事も特集します。

記事ランキング