小説家の森美樹さんが自分自身の経験を交えながら、性を追及し、迷走する日々を綴るこの連載。今回のテーマは「人前で泣くこと」についてです。大人になったら涙をコントロール術を持つべきと考える森さんですが、40代を過ぎてからもふいに泣きたくなることが山ほどあるのだそう。森さんの悲しみの根底にあるものとは何なのでしょうか。
*本記事は『cakes』の連載「アラフィフ作家の迷走性(生)活」にて2019年8月17日に公開されたものに一部小見出しなどを改稿し掲載しています
大人になったら涙をコントロールして
何度か、人前で泣いたことがある。冠婚葬祭などの涙がふさわしい場ではなく、個人的に傷ついたりショックを受けた時に、ついホロッと泣いてしまったのだ。相手は女性のほうが多く、男性はごく少数、というかひとりくらいだったと思う。
もともと人前で感情をあらわにするのが苦手な私だ。他人様の前で泣くなんて言語道断、そもそも目の前でいきなり泣かれたら迷惑に違いない。それでも泣いた。余程の事情があっただろうと推測する。自分のことながら、記憶にモヤがかかってしまっているのだ。10代、20代であったのは確かである。
人前で堂々と泣いてもいいのは(泣こうという計算がなく、やむをえないとしても)、20代までではないか、というのが私の持論だ。ぎりぎり30代前半ならしかたがないにしても、40代に突入したら、もう人前で泣いてはいけないと私は考えている。
だから、大人になったら涙をコントロールする術を身につけなければならない。
「なかったこと」にされる感情
でも悲しいかな、40代を過ぎてからもふいに泣きたくなることが山ほどある。それでもたいていの女性は(男性だって)、歯を喰いしばって耐えたり、わきあがった感情を意識しつつスルーする(ように務めている)。それなりに経験値が上がっているから、「こんなことは何でもない」だの「こんなことで泣くなんておかしい」だの、自分を無理に軌道修正させている。
本当はとても重要な出来事なのに「なかったこと」にされた感情は、粉雪みたいに音もなくそっと心の中に降り積もっていき、やがて根雪状態になり、あげく窒息しそうになる。目に見えない悲しかったこと、泣きたかったことに押し潰されて健康を害してしまったり、鬱気味になってしまったり。
本来、悲しみに「こんなことは何でもない」とか「こんなことで泣くなんておかしい」といった位置づけなどないのである。私の悲しさは私だけのものだし、あなたの悲しさはあなただけのものだ。
でも、もうこんな年齢だから人前では泣けない。誰かに言われた一言や、誰かにされた行為に傷ついたとしても、あきらかに相手が故意にそうしているとわかっていても、泣けない。
もちろん相手が故意にやっているのではないとしても、泣けない。目頭まで到達した水分を、力づくで堰き止める。女優さんじゃなくとも、大人の女性なら(男性だって)できるはずだし、やってのけただろう。一粒でも涙をこぼしたら、もう負けで、決壊したダムのように流れ流れてしまうのを私達は知っているから。
自ら貼っていた悲しきレッテル
私も40歳以降は、自分の悲しみをないがしろにしてきた。「人前で泣くべきではない」というのは30歳を過ぎたあたりからの持論だったが、「ひとりでも泣くべきではない」という持論を、40歳くらいで掲げてしまった。
なんていうか、客観視して泣き顔って醜いじゃん、と思っていたのだ。誰も見ていないのに、醜い、ブス∞みたいな、それこそ悲しきレッテルを自ら貼っていた。
一昔前に、「週末号泣でデトックス」などという処方箋というかストレス解消法がまかりとおったが、「よーし、今週末は思いっきり泣くぞ! 泣くために悲しさをためておくぞ!」という計画をたてて実際にうまく週末に号泣している人ってどのくらいいたのだろうか。確か「週末号泣デトックス」にはセオリーがあって、お涙頂戴の映画やドラマを観るとか本を読むとか、号泣するための事前準備を万端にするやりかただったように思う。
まあ、記憶の奥底にしまいこまれた悲しみを引っぱりだす術としてはアリかもしれないが、悲しみにも賞味期限があるので、できれば新鮮なうちに涙を流させてあげたい。なので最近私は、悲しいな、泣きたいな、と心がきゅうっと絞り込まれたら、なるべくその日の夜に泣くようにしている。
若さに嫉妬するというのは表面上の問題
40代以降の女性の悲しみって、年齢に付随することが多いのではないか。「人生は50歳過ぎてからが楽しいのよ」とか「還暦を過ぎてからが本当の女の自由よ」とか、周囲からも聞こえてくるのだが、40歳~50歳ってまだ若さにしがみつきたいのだ。だから、ほんの些細なことで泣きたくなる。小説を書いている私にとって若い才能は脅威だし(大人の魅力で勝負!と頭ではわかっているのだけど)、若さあふれた容姿や肉体のピチピチビームには毎朝毎晩ノックアウトされている。
だから、むやみやたらに外には出ない(というのは大げさですが)。週に2回通っているヨガ&ピラティスでも、若い女性がしなやかに身体を操っているのを尻目に、「私だってまだまだ脚が上がるぜ! 腰も曲がるぜ!」みたいに無理をしてしまう。翌朝には筋肉痛が待機しているというのに。
若さに嫉妬するというのは表面上の問題で、根底では、若さを至上主義にしてしまっている自分が悲しくてたまらないのだ。どうにもならない自分が悲しくて、泣きたくなる。なんてつまらない女だろうか、と我ながら悲しくなってしまうが、先程申し上げたように、私の悲しさは私だけのものなので、許していただきたい。
でも共感してくれる人も多いのではないか。いつだったかサプリメントのCMで「ニキビひとつで会社を休みたくなる」みたいなコピーがあったけれど、それと似たような心境だ。歳を重ねた女性なら新たな白髪1本発見しただけでおしゃれする気を無くしたり、テンションが急降下するだろう。男性の場合は、性的な能力の衰えが顕著なのだろうか。
男性に悪気はないとわかっているけれど
つい最近も、私は人前で泣きそうになった。やっぱり若いほうがいいのかな、と思ったのがきっかけだった。詳細は省くが、目の前にいたのは男性である。この、やっぱり若いほうがいいのかな、というのも思考の癖なのでなおす術があったらおしえてもらいたいのだが、それこそ50歳、いや60歳くらいにならないと無理な気がする(人によっては何歳になっても無理だろう)。
とにかく、私独自の悲しさスイッチが入ってしまい、涙のスイッチに移行するまでさほど時間を要さない、ことを私は素早く察知し、笑顔の裏で悲しさをハンマーで殴りつけた。夜まで心の底でうずくまっていてくれ、夜になれば解放してあげるから、とエアーでつぶやきながら。
決して上の空ではなく、やや引きつっていたかもしれないが笑顔を貼り付けて、目の前の男性と会話を続けた。男性には悪気はないとわかっていたから(わかっていたからこそ)、余計に悲しかったのかもしれない。
女性同士で傷つけあったりするのは、故意であっても故意でなくても、真意はなんとなく理解できるものだ。「あなたが私に意地悪してしまった(ひがんでしまった)気持ちはわかるよ、でも私はあなたみたいにならないよう気をつける」、みたいな感じだろうか。
でも、対男性だとこれがとんと理解できない。これはもう種別が違うのだからわかれというほうが無理だと、あきらめるしかない。男性側からしたって、女性がなぜ無作為に男性を傷つけるのか(当然、女性にその気はないのですよ。稀にわざとという場合もあるだろうけれど)、図りかねるだろう。
だから私も、男性を責めるのは酷だよね、と頭でわかってはいた。でも、生まれてしまった悲しみを抹殺することもできなかった。
ひとり妄想劇場はおススメ
夜中、ひとりになって私は心の底に沈めた悲しみを引き上げた。さっきはハンマーで殴りつけてごめんよ、と謝りつつ、悲しみを反芻してひっそりと泣いた。
ちきしょー、どうせ私はもう若くはないのさ、でも若い頃の私を見たら絶対に驚くぞ、けっこうイケてたんだぞ、というしょうもない妄想劇場をひとりで繰り広げて、ちょっとばかし優越感にひたり、でももうあの頃には還れないのよね、とまた悲しさを呼び起こし、なだめすかしつつひたすら泣く。そのうち、悲しさが涙で洗われて、春の日に雪が蒸発していくように、きらきら光りながら天に昇る(気がする)。
とかく大人は、「悲しんではいけない」「泣いてはいけない」と思いがちだ。そう強く思ってしまう人ほどやさしいのだと私は思う。でも、悲しさも涙も生まれてしまったからにはやはり生かしてあげたい。押し殺したり、「なかったこと」として処理したりするのは、悲しさや涙に対して失礼だ。
一見してくだらない、と思われるかもしれないが、女性にも男性にも、ひとり妄想劇場はおススメである。ただし一夜限りの単館上映が条件だ。明日からは何事もなかったように笑顔で生きていくのが、それこそ大人としてのたしなみではないだろうか。