アラフィフ作家の迷走生活・リターンズ 第3回

結婚にまつわる話は、結婚を経験した人の数だけある

結婚にまつわる話は、結婚を経験した人の数だけある

「アラフィフ作家の迷走生活」
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小説家の森美樹さんが自分自身の経験を交えながら、性を追及し、迷走する日々をつづってきた連載「アラフィフ作家の迷走生活」。リターンズでは過去の連載を振り返りながら、2022年の森さんが感じることを新作としてお届けします。

*本記事で振り返っている回はページ下部の「この記事を読んだ人におすすめ」から読めます。

私事で恐縮だが、本日(11月8日)に愛猫が虹の橋を渡った。愛猫(メス)が3歳の時に縁あって我が家にやってきて、8年間ずっとそばにいてくれた。実をいうと私は猫好きの人間ではなかった。愛猫も私が望んでお迎えしたわけではない。わりと強引に連れてきたのは旦那さんのほうだ。とはいえ自宅にいる時間は私のほうが長く、必然的に私が面倒を見ることになる。正直、最初は乗り気ではなかった。が、3日で猫の魅力に陥落した。それからは親バカ道まっしぐらである。

縁はさりげなくやってきて、やがて強固になる

このように、縁というのはさりげなくやってきて、切っても切れなくなり、やがて絶対に切りたくないほど強固になっていくのだ。もちろん、逆の場合もある。切りたいのに切れなくて、野蛮な方法で無理にぶった切るような縁だ。

『アラフィフ作家の迷走生活』第21回~30回を振り返ってみると、結婚をテーマにしたものが多い。結婚というのも、人生でメインとなるような「縁イベント」ではないだろうか。どうしても切りたくない、いやいや、闇組織を使ってでも切りたい等々、結婚という縁にまつわる話は、結婚を経験した人の数だけあるだろう。

男友達は最初から友達枠で恋愛対象圏外に置いている私にとって一番衝撃だった結婚が、第25回「男友だちが恋愛対象に変わるとき」だ。

一度も離れたことのない幼なじみ同士の結婚なんて、オンラインゲームで一緒に戦った仲間同士が本当に結婚したとか、毎回配達してくれる宅配便業者と結婚したとか、そういう縁よりも私には驚異だったのだ。

生まれた時から縁自体はあったのに、薄い(あるいは細い)縁で、年齢を重ねてから濃く(あるいは太く)なったのだろうか。とはいえ個人的な感想として、結びつきそのものも強そうである。

エッセイに登場した幼なじみ同士のご夫婦も、今現在まですこぶる円満で、円満のまま添い遂げそうである。おだやかな暮らしはSNSでも十分に伝わってきて、きっと前世で徳を積んだのだろうと思わせる。

結婚相手とは左手の小指が赤い糸で結ばれているというが、私は必ずしも赤ではないと思っている。たとえば幼なじみ同士だとしたら赤ではなく、やわらかなクリーム色とか、さわやかな水色とか、そんな気がするのだ。赤だと情熱的だが、短い期間に燃え尽きてしまいそうなイメージもある。ようは結婚生活に何を求めるか? が糸の色の決め手になるのではないだろうか。

結婚により、もうひとりの自分と向き合う時間ができて

よく結婚は修行だと言われるが、私は相手によってもたらされるもうひとりの自分と向き合うというのが修行になっている。この修行を前向きにとらえたのが、第26回「結婚は自分が気持ちよくなるためにするものである」だ。

恋人時代に私はよく現在の旦那さんに手書きの手紙を送ったのだが、返事はいっさいなかった。返事どころか、コメントもなかった。「せっかく手紙を書いたのに、キィーッ!」と思ったが(思っただけで口には出さなかった)、なんとなく意地で手紙を送り続けた。

すでに付き合っていたので一方的な愛の告白ではなく、一緒に観た映画の感想や一緒に食べた食事の感想や一緒に行ったイベントやライブの感想を綴っていた。長文ではなく短文だ。数行に気持ちを凝縮した。しかし返事もコメントもない。一度もない! 「一応プロの小説家の私様が書いているんだけど!」と思っていたが(思っただけで口には出さなかった)、あまりにナチュラルな旦那さんを見てふと思った。

「あ、私が勝手にやっているだけだから、もうそこで完結してるんだよね」と。

旦那さんには返信する義務はないのである。だって私は旦那さんに頼まれてやっているわけではないのだから。もらってくれるだけでありがたいのだ、とやっと気づいたのだ。エゴ丸出しの自分を恥じた、ささやかなエピソードである。

これが結婚生活ともなるとエゴエピソードのオンパレードだ。せっかく早く起きて朝食を作ったのに旦那さんは食べずに出て行った、とか(作って、とは言われてないし、早い出勤というのも聞いていた)。旦那さんが靴下を裏返しにしたまま洗濯機に入れた、とか(裏返しのままタンスにしまうとかすればいいかも)。

朝食など作らずに私だけ寝ていればいいし、靴下の場合はひとこと注意すればすむ。女性がよく言う「男性に察してほしい」というのは土台無理なので、やってほしいことは逐一言うしかない。「男性に察してほしい」の罪は男性側ではなく女性側にあると私は思う。相手のため、と勝手に思うからつらくなるわけで、自分がやりたいからやっているだけ、というスタンスでやればご機嫌になる。

「旦那さん」と「夫」を使い分けるようになった私

と偉そうに言いつつも、「さすがに頼むよ、察してくれよ」な出来事は大なり小なりやってきて、ただ生きるだけで悩みは尽きない。その代表格が第28回「夫が20歳も若い女性とデートした日」だ。

男性はどう思っているかわからないけれど、心に芽生えた女性性は1歳の赤ちゃんだろうが、5歳の女児だろうが、80歳の婦人だろうが、色味は変わるが色褪せたりはしない。

フェチとか癖とは別に、低年齢だろうが高年齢だろうが、女性らしい色香は備えている。そして悲しいかな、女性として生まれたからには嫉妬心と生涯付き合わなくてはならない。便宜上、子を宿せる性として生まれた女性には、潜在的に、子を宿しやすい女性に嫉妬してしまうのだろうか。美貌とは別の、若さという魔力に、だ。私の知人は「閉経したら嫉妬心がなくなった」と笑っていた。もちろん、こういう感覚も人それぞれだろう。でも嫉妬という漢字に女偏が付いているあたり、あくまで私個人の意見だが、女性の本能が関連している気がしてならないのだ。

第29回「私が夫のことをあえて「旦那さん」と呼ぶ理由」だが、現在私は時々旦那さんのことを「夫が」と言っている。話す相手によって変えるようになったのだ。

エッセイを書いた当初は「夫を立てている自分」が好きだったし(まさに自分が気持ちよくなるために「旦那さん」と呼んでいた)、傲慢になりがちな自分を抑える意味もあった。これも私個人の見解だが、「旦那さん」よりは「夫」と呼ぶほうが夫婦の歴史が深そうだ。もっと言ってしまえば、私は自分のイメージ(他者から見られるイメージではなく、自分を内観しているようなイメージ)を更新したかったのかもしれない。

「夫」と呼ぶ自分は落ち着いていて、人間味もありそうだし、渋みもある(と私が勝手に思って、勝手に気持ちよくなっている)。たとえば今、夫が20歳若い女性とデートをしても、絶対に動じないくらい、人間としての土台ができていそうだ。

私もあと数日で52歳、アラフィフにも年季が入ってきた。どこか初々しい「旦那さん」呼びから、たおやかさもありつつ威厳をも匂わせる「夫」呼びに移行するのに十分な年齢だ。閉経も近いから嫉妬心ともお別れし、夫が20歳も若い女性とデートしようが何しようが、笑って達観する。そんな女性になれるよう、自分をコントロールしよう。

と、頭では思っているけれど、心の底では当然無理だとわかっている。私はきっと、閉経しようが何しようが、嫉妬心とはお別れできないし、いつまでたっても人間味は不十分だ。生きている限りはもがくし、結婚が続く限りは修行をしていくのだろう。

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アラフィフ作家の迷走生活

小説家の森美樹さんが自分自身の経験を交えながら、性を追及し、迷走する日々を綴る連載です。

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