小説家の森美樹さんが自分自身の経験を交えながら、性を追及し、迷走する日々を綴るこの連載。今回は恋人や結婚相手の「呼び方」についてのお話です。対等な関係を示す「パートナー」という呼称が普及しつつあるなか、森さんは夫のことをあえて「旦那さん」と呼んでいるそうです。そこには、「呼び名は自分のためのもの」という森さん独自の考えがありました。
*本記事は『cakes』の連載「アラフィフ作家の迷走性(生)活」にて2018年12月22日に公開されたものに一部小見出しなどを改稿し掲載しています
ここ数年、自分の夫や妻、彼や彼女の呼び方について物議を醸し出しているようだ。先日、ネット上で「職場のデキる女性が自分の夫を『主人』と呼んだ時、落胆して尊敬の念もなくなった」みたいな記事を見て、私は苦笑してしまった。記事の主旨としては「デキる女性としては、主従関係を連想させる形容は使わないでほしい」ということだろう。一理はあるが、尊敬の念がなくなるほどの問題だろうか。もしかしたら『主人』と呼ぶプレイを自分に課しているかもしれないし、夫=主人にかしづく自分が好きなだけかもしれない。いずれにしても、呼び名は呼ぶ人の勝手であって、第三者がジャッジするものではない。
私はあえて旦那さんと呼ぶ
と、よその方を棚に上げておいて、今まで私個人としては夫や妻、彼や彼女を「パートナー」と呼ぶ人が好きではなかった。なんとなく、いけすかないな、偉そうだな、と思っていたのだ。これもまた私の想像力のなさというか、頭の固さだなと恥じている。
私自身は夫のことを旦那さんと呼ぶけれど、これは「人として夫を尊重しよう」という戒めがあるからだ。性格が悪い私のこと、放っておくと夫を奴隷のように扱ってしまう懸念がある 。ゆえにあえて旦那さんと呼び、日々、自己鍛錬に励んでいるのだ。
しかし近年、親密な付き合いをしている方を「パートナー」としか呼べない人々が増えている(「相方」「連れ合い」「恋人」など、性別を特定しない呼び方も含む)。LGBTの方々だ。なるほど、呼び名ひとつにしても様々な事情があり、歴史があるものだ。
先程私が言った「『主人』と呼ぶプレイ」も「夫=主人にかしづく自分が好き」も、「夫=旦那さんと呼ぶことで自分を戒めている」も、すべて自己をコントロールする術ではないだろうか。そう、呼び名は相手のためではなく自分のためなのである。
普段使いの物言いはとても重要
男女平等を掲げつつ、まだまだ不平等な点があるから、女性側が、主人、旦那様、と呼べば「なぜ自ら女を下げるような言動をするのだ」と憤慨する方々がいるかもしれないし 、男性側が、嫁、家内、と呼べば「何を上から目線で」と侮蔑する方々もいるかもしれない。一理あるし、言葉はサブリミナル的に脳味噌にこびりつくものだから、普段使いの物言いはとても重要だ。
植物ですら「今日も可愛いよ、緑具合が冴えているね」などと声をかけて育てれば生き生きするし、『ありがとう水』が流行ったようにペットボトルに“ありがとう”と記したり、ミネラルウォーターに「ありがとう」と感謝して飲めば味が変わるのである(らしい)。
なので、パートナーパートナーパートナーと呼び続ければ、本当にパートナーと同等になるだろうし、いい変化も見られるかもしれない。 とはいえ、「パートナーと呼ぶ党」とか、妙な政党やルールができるのも困る。だって私はやっぱり、旦那さんと呼びたいから。主人と呼ぶ人は、その方が都合がいいからそうしている。職場での立ち位置もあるだろうし、三歩下がって師の影を踏まず、みたいな自分に酔っている場合だってある。皆それぞれ、事情というか好みがあるのだ。
私の旦那さんはどうかというと、外やSNSでは私のことを嫁さんとか妻と言っている。 私はこれに満足しているし、嫁とか妻と言ってもらうと、結婚している自分としての役割を改めて意識できて好都合だ。これがたとえばお子様がいる女性だと、事情はまた異なるだろう。誰々ちゃんのお母さん、この呼び名に満足できる方とできない方がいる。私には名前があるのよ!みたいな主張だ。これはきっと承認欲求の裏返しだ。
「今日も一日、誰も私の名前を呼ばなかった」
ちょっと話が脱線するが、既婚女性の不倫が多いのは承認欲求が満たされるから、という理由も大きい。
女性は人生において、わりといくつも役割が与えられるが、その分、自己というものを見失う時期もある。やりがいのある仕事や、趣味や、ボランティアなどに勤しんでいる女性は、自身の名前を呼ばれる機会があるだろう。しかしそういった機会がない、あるいは子育てや介護などでそういった機会から隔離されてしまっている女性は、ふと空虚になってしまうのではないか。私は誰なのだろう、嫁で妻で母で家内だから家の中だけで働く、人? 女? 誰? みたいに。今日も一日、誰も私の名前を呼ばなかった 、といった具合に。
そういう意味では、パートナーという呼び名はいいなと思う。呼び名の中で一番、相手を尊重しているように響く。勿論、どんな呼び名であろうと相手を気遣ったり、立場をわきまえたりしているだろうけど、パートナーにはかなわない気がする。だって「おまえ嫁なんだから、俺の親の介護はやってくれるよな」とは言えても、「おまえパートナーなんだから、俺の親の介護はやってくれるよな」とは、なかなか言えないのではないか。「君はパートナーだし、俺と一緒に親の介護をやってくれないか」くらいの言い方になりそうである。次いで「おまえ妻なんだから、子供の面倒は見てくれよな」からの「パートナー同士、子育ては全部対等だよ」みたいな感じだろうか。
今時、「おまえ妻なんだから、子供の面倒は……」なんて言い方しようものなら、相手からしっぺ返しをくらいそうだが。そう、イクメンという言葉すら死語になりつつあるのだから。今時、イクメン=育児に積極的な父親、なんてあたりまえだという風潮だ。だって、あなたとパートナーの子供なのだから。
日常生活に独自のプレイを持ち込んでいる人のために
LGBT云々に限らず、今後、パートナーという呼び方は広く蔓延するだろう。これはよろこばしいことであるが、私のように少数派(?)の主人、旦那様、旦那さん派もできれば否定しないでほしい。「主人って呼ぶことで妻である自分を自覚していないと暴走しちゃうのよ」とか「私自身の浮気防止にあえて夫を旦那さんと呼んでいるのよ」とか、日常生活に独自のプレイを持ち込んでいる方々もいるし、「ご主人様って呼ぶのが夢だったの」というロマンチックな女性や、「家では虐げられているから、せめて外では家内とかうちのヤツとかって言ってみたいんだ!」という切ない男性もいるかもしれない。
いずれにしても、その時だけの印象で決めてしまうのは、軽率というか、実にもったいないのだ。 ネット上の記事、「職場のデキる女性が自分の夫を『主人』と呼んだ時、落胆して尊敬の念もなくなった」の、職場のデキる女性は、自宅ではドMでドSの夫を「ご主人様!」と 呼び、日常生活を薔薇色に彩っているかもしれないのだから。