20代の時より知識も経験も身について、どんどん仕事が楽しくなってくる30代。ついつい心の声を無視して頑張りすぎてしまうこともしばしばです。そんな働き女子の力みがちな肩を、精神科医の名越康文(なこし・やすふみ)先生がゆるーく揉みほぐしていく連載エッセイ。一生懸命だけど頑張りすぎない働き方のヒントが見つかるかも。
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頑張ってもできない時、「自分には才能がない」と諦めるのか、「才能がないから努力でカバーしよう」と情熱を燃やすのか。人は2つのタイプに分かれるような気がします。名越先生によると、「誰にでも才能はある」という前提に立つことが大事なのだそう。

才能がなくても情熱でカバーできるか?

前回は「努力せずにできちゃうこと」にこそ、分がある、才能があるという話をしました。

結局、一番大事なのは、自分の「才能」の場所がどこにあるかを正しく見つけること。誰でも才能が発揮できるものと、できないものが、やっぱりあると思うんです。それはジャンルによって、というより、もっともっと細かく見ていかなくてはいけません。

たとえば自分のことで僭越ですが、僕は昔、漫画家になりたくて絵を一生懸命に描いていたんです。

ところが、絵を描くことは大好きなんだけど、バランスはすごく悪かった。ある時は背景ばっかり描きこんで、人物が遠のいてしまったり。部分部分に関しては自分で満足できる絵なんやけど、全体としては上等な絵として成立していない。どうやら僕は、空間認知能力がすごく劣っているんですね。だから方向音痴ですもん。街の中である店に入って、そこから出た時に、進行方向とは逆向いてとことこ歩きだしたりするから(笑)。

僕、それがわかった時にね、漫画家になるのはやめようと思った。つまり「才能」がない。そこを補完してまでやりたいと思う情熱もなかった。

「いや、それでも自分はやりたい!」という情熱を持てる人は、もっと言うと、それもまた才能かもしれない。たとえ不器用でも、苦手なところ、弱点を克服する努力をいとわない、血のにじむような努力をしても乗り越えたいくらい絵を描くことが好きなんだ、と思える人は、それはひとつの才能だと思います。

だって、悩み苦しむことすらひとつの楽しさだと感じるものであれば、それはいずれ「するする」いく可能性を直感しているから、かもしれませんからね。

「才能はある」という前提に立つこと

「才能」という問題に関してもっと言うと、まず人はすべて絶対に何かしらの「才能」はある、という認識を大前提として持つことが非常に重要だと思います。つまり、才能は偏在が〝遍在″する。ある能力に関してはAが優れているけど、ある能力はBが優れている、というように。

ひとつのジャンルや文化の中で計ってみれば、才能の差は明らかに不平等なんだけど、それはまったく悪いことではない。個々は必ず、それぞれ別々の才能があるのだから。そのことをリアルに認め合える世の中になってほしい、と僕は思っているんですね。

確かに、ある才能においては、完全に神様は差別的で、ある人に過剰な才能を与え、ある人に中程度の才能を与え、ある人にはわずかしか与えない。それが平気で起こっているのがこの世の中である、ということを、まず常識にしないといけない。

その才能の偏在の上に、「自分は好きだから努力したい」という情熱もある。

子育てもね、何か一様の型にはめて教育するんじゃなく、基本自由勝手に、素直に育ててあげたほうがいいと思うんですよ。そのほうが、子供本人が自分の感覚で模索しながら、自分に合った文化を見つけていくんじゃないかなと思う。

僕が今の世の中で圧倒的に間違っていると思うのは、「才能よりも努力だ」という風潮です。すべてはまず「努力」だ、という教え方、考え方は、あんまり良くない。悪しき平等主義の裏返しというか。

それは一見美しいだけの標語に過ぎない。そこから、とにかくやみくもに努力しろ、成せば成る、成せないのは努力が足らないからだ、という無茶な根性主義にもつながっている気がする。下手すると、パワーハラスメントにもつながるような。

「無駄な努力」を減らす努力

たとえば会社で上司が部下を育てるにしても、まずその人をどの部署、どの役割に配置したらいいのか。どういう時間帯で、どういうグループの中で働けばいいのか。あるいは個人作業がいいのか、チームがいいのか。内部の対人関係に向いているのか、外部の対人関係に向いているのか。

こういった「住み分け」の理論を、もっと細かく選定したほうがいい。そのほうが個々のパフォーマンスも上がるし、会社の業績も上がると思う。

「適材適所」ってやつですよね。そのためには個々の「才能」を、もっと細かく、多様に弁別したほうがいいのではないか。

それが今は、あまりにもざっくりしすぎている。こういう話になると、誰もが「そうですね。やっぱり人は、自分に向いている仕事をやったほうがいいですよね」とか、口では平気で言うんだけど、じゃあ実際、どこまで具体的に弁別しているのか?

たとえば「こいつは明るいし話もうまいから、外回りやらせよう」。でもひと口に外回りって言っても、めっちゃいろいろあるでしょう(笑)。今まで付き合いのあるところを回るのか、それとも新規開拓か。さらに同じ業界の中での新規開拓か、外部の業界へ働きかけるのか。これはそれぞれ、かなり違う才能が必要とされると思うんですよ。

僕がコメンテーターとして出演している「ルソンの壺」(NHK大阪)という関西の番組があるんですけど、その中に「わが社の幸村」という名物コーナーがあるんです。戦国武将・真田幸村のような会社の名参謀を紹介していただくもので、そこに出演されたひとりの女性のエピソードがすごく印象的だったんですね。

その会社は、洋服などの刺繍を製造・販売する専門にしている老舗なんですけど(ゴーダEMB(エンブ)株式会社。2016年8月28日放送)、そこで社長が参謀役に抜擢したのが営業部で当時一番若い20代の女性だったんです。実は彼女、入社した当初は何かとミスが多かった。自信を失くし、もう会社を辞めたい、とまで追い詰められた時に、でも社長さんが“野に放つ”ように新規の顧客開拓を自由にさせてみたんですね。

そうしたら、普通はTシャツとかハンカチへの刺繍が仕事だから、取引先はアパレル関係が中心なんですけど、彼女はリストバンドに刺繍するとかね。あるいは封筒の金具があまりに素っ気ないから、そこに可愛い刺繍をしたり。発想力がユニークで抜群なんです。

それで雑貨屋さんや文具屋さんの業界を回り出して、いろんな間口を広げたわけ。その時に初めて彼女の才能がものすごく活かされて、彼女も水を得た魚のように、仕事が楽しいから自然にどんどん努力する。そうして、いまやその会社の「幸村」になったんです。

こうやって個人個人が「自分の分」を発見して、パフォーマンスを最大発揮できるポジションで活躍するようになることは、「無駄な努力」を減らすことでもあります。あらゆる場所での楽しい「努力」が連鎖して、あらゆる成果が積み重なっていく。これはもう、社会の理想ですよね。

そのためにもまずは「才能」という概念の視野を広げて、細かく弁別することが、人を使う時も、あるいは本人にとっても、すごく大切なことかなと思います。

名越康文(なこし・やすふみ) 1960年、奈良県生まれ。精神科医。相愛大学、高野山大学客員教授。専門は思春期精神医学、精神療法。近畿大学医学部卒業後、大阪府立中宮病院(現:大阪府立精神医療センター)にて、精神科救急病棟の設立、責任者を経て、1999年に同病院を退職。引き続き臨床に携わる一方で、テレビ・ラジオでコメンテーター、映画評論、漫画分析などさまざまな分野で活躍中。