20代の時より知識も経験も身について、どんどん仕事が楽しくなってくる30代。ついつい心の声を無視して頑張りすぎてしまうこともしばしばです。そんな働き女子の力みがちな肩を、精神科医の名越康文(なこし・やすふみ)先生がゆるーく揉みほぐしていく連載エッセイ。一生懸命だけど頑張りすぎない働き方のヒントが見つかるかも。
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仕事でも趣味でも、「頑張ればできること」と「頑張らなくてもできること」、さらに言えば「頑張ってもできないこと」ってありますよね? 今回のテーマは「努力」について。精神科医の名越康文先生が考える本当に「報われる努力」とは?

仇になる努力と報われる努力

「己が分を知りて、及ばざる時は速やかに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、己が誤りなり」(兼好法師)

有名な『徒然草』の中の一節ですが、これは僕自身、非常に耳の痛い教訓なんですね。「自分の分を知らないで、無駄な努力をするのは誤りである」と。これは本当に大事なことだなと、自分の実感として人生観の中に刻まれています。

「無駄な努力」ってことに関しては、実は以前、武術家の甲野善紀先生と出した対談本『薄氷の踏み方 時代に塗りこめられないために』(PHP研究所/08年刊)の中でもじっくり語っているんですよ。同じ努力でも、それが仇になる場合と、ちゃんと報われることの両方がある。そして努力が報われるためには、できるだけ正確に「自分の分」を知らなくちゃいけない。

たとえば筋肉トレーニングを例に出せばわかりやすいと思うんです。

僕が漏れ聞いたところによると、ボクシングの選手が下手に筋トレをして、屈筋(身体を曲げる筋肉)も伸筋(身体を伸ばす筋肉)も鍛えてしまうと、逆に戦闘力が落ちる場合があるらしいんですよ。

力こぶがすごく出るというのは、一見強そうですが、それは屈筋が過剰に鍛えられているわけですよね。でも相手にパンチをヒットさせるには伸筋を使うじゃないですか。その時、屈筋が強いと邪魔されてしまうらしい。つまり不必要な筋肉を鍛えると、かえってパンチが遅くなったり、あるいは拳を痛めてしまったり、疲労が凄かったりと、逆効果や反作用が出てくる可能性がある。

「努力している実感」に気をつける

だから、自分の目的に応じた適切なトレーニングをする必要があるんです。

ただ、ともかくも筋トレに精を出すと、「努力している」という実感が得られますからね。
ところがその実感や事実に依存して、質を問わない筋トレに走り過ぎると、結局スタミナ切れを起こしたり、大きなケガにつながったり。「これだけ努力したんだから大丈夫」ということが、自分に対するある種の言い訳にもなってしまったり。

やみくもな努力って、心理的になかなかやっかいな様相を僕たちにもたらすんですよ。独りよがりの自己満足で、「やった」わりに結果が出ていない、というような。

あらゆる努力には、そういう面がある。単に「努力すれば報われる」ことは絶対なくて、努力の「中身」が大事なんです。

じゃあ努力の中身ってどうやって決めたらいいの?ということですが、要は「パフォーマンスが良くなる努力」をしなければいけない。それを臨床的にあるいは実践的に言うと、「一連の動きがスムーズに連係する」ということでしょうね。

筋肉運動に置き換えると、たとえ個々の筋肉がどれだけ鍛えられていても、あんまり意味がない。先ほどの例のように、屈筋と伸筋が引っ張り合うようなことになるから。それよりも全体の筋肉がバランスよく、何十種類という筋肉の束がスムーズに澱みなく機能的に動かせること。

つまり「一連の動き」の中に、差しさわりがあったり、引っかかりがあったり、あるいは反発し合ったりしないで、まるで川の流れのように、ひとつの動きが始まって、そのままスムーズに終わる。そうであるとき初めて力が無駄なく伝わって大きなインパクトを生む。それがパフォーマンスの良さ、理想形なんですね。

「無意識にできちゃうこと」を大事にして

以上のことを踏まえたうえで、「分を知る」という問題に戻りましょう。

「分を知る」というと、自分の身の程を知って立場をわきまえろ、みたいな消極的なニュアンスが一般的にあるかと思うのですが、僕はもっとポジティブに捉えています。つまり「自分の分」とは、僕たち個人各々がもともと持っている素養のこと。それを「才能」や「センス」と言い換えてもいいと思うんです。

そしてパフォーマンスの良さこそが、その人の持っている才能やセンスの証だと思います。
だって、まずAという筋肉を動かして、ひとつの運動が始まって、その直後にBという筋肉を初動して……みたいな、正確無比な連係って、それは絶対に無意識でしょう。

なぜか無意識に「できちゃう」こと。それはその分野に関して、明らかに才能・センスがあります。逆にそれがない人は、どれだけ必死に努力しても、才能・センスのある人にどこまで追いつけるかはわからない。

つまり「才能がある」とは、他人に教えられなくても、ある程度、一連の運動がスムーズに行く分野だと。だから僕は、そういう意味で、無意識で連動するパフォーマンスの良さが、なぜかはじめからインプリントされている分野を、「才能がある」と表現しているんですね。

ちょっと難しいかな?

もっと噛み砕いて言うと、こういうのは誰でも覚えがあると思うんです。「あれっ? 初めてやる事なのに、結構するするっといけるぞ」ってことが。あるいは自分が悪戦苦闘している横で、まったくのビギナーである誰かがするするっと事をこなしている。楽器を例にしてもいいですよね。自分はギターを練習しても、なかなか巧くならない。でもアイツは最初から結構クリアな音を出せている、というような。

この「するする」いけるジャンルが、自分の「才能」の場所だと思ってください。なるほど、この場所に「自分の分」があるんだと。

名越康文(なこし・やすふみ) 1960年、奈良県生まれ。精神科医。相愛大学、高野山大学客員教授。専門は思春期精神医学、精神療法。近畿大学医学部卒業後、大阪府立中宮病院(現:大阪府立精神医療センター)にて、精神科救急病棟の設立、責任者を経て、1999年に同病院を退職。引き続き臨床に携わる一方で、テレビ・ラジオでコメンテーター、映画評論、漫画分析などさまざまな分野で活躍中。