黒澤はゆまの歴史上の女性に学ぶシリーズ、今回は女優にして発明家のヘディ・ラマーです。彼女は、“世界一美しい女性”と呼ばれるほどの美貌を持ちながら、スマートフォンに使用されている技術の生みの親でもあります。天が二物を与えた、彼女の生涯とは?

スマホを作ったのは世界一の美女だった

「世界一美しい女性」

そう評された女優がいます。その名はヘディ・ラマー。

ブロンド全盛のハリウッドにあって、数多の女優たちが彼女の黒髪をうらやんで髪を染め、あの「風と共に去りぬ」で有名なヴィヴィアン・リーでさえ髪型をまねしたという伝説の女優。

しかし、彼女にはもう一つの顔がありました。

それは天才発明家。

天は二物を与えずと言いますが、ヘディは、自宅の一角に製図室を構えた技術者だったのです。そして、その恩恵は今も私たちにとってとても身近なもの「スマートフォン」という形で受けています。

美貌と発明、両方の才能に恵まれた彼女の生涯は波乱万丈。決して順風満帆なものではありませんでした。

そんな彼女の激動の人生について今回はお話したいと思います。

父母に育まれ、16歳で女優デビュー

ヘディ・ラマーは1914年、オーストリアのウィーンでユダヤ系の両親のもとに生まれました。

当時のウィーンは、様々な人種・民族の集う、コスモポリタンな一大芸術都市。何よりも演劇が盛んで、その空気をたっぷり吸って育ったヘディも物心ついた頃から女優志望でした。

彼女はとにかく何でも物まねする子どもだったといいます。特にお母さんの癖や何気ないしぐさをまねるのが好きで、家族の前でそれを披露しては、喝采を得ていたようです。

また、お父さん子だったヘディは父親と散歩するのも好きで、その際、父親はバスや街灯などを指差し、その仕組みをヘディに説明してあげたといいます。物事の裏面の仕組みに興味を持ち、世界の実相や真実を探求すること。発明家として大事な素養を、ヘディは父親との散歩のなかで身につけていったようです。

ヘディが演劇の世界に入ったのは1938年、16歳の時のこと。意外にも初めは役者ではなく、当時はスクリプトガールと呼ばれた監督助手でした。彼女自身も仕事の中身をよくわかっていなかったのですが、

「知らないけど、私やってみる」

という元気な受け応えで採用となりました。

映画史上初のチャレンジングな演技

その後は、美貌からどんどん重要な役を任されるようになり、1933年、18歳の時チェコ映画「春の調べ」で中年のパッとしない旦那に不満を抱く若妻エヴァを主演しました。

この映画の中でヘディは、森の泉で全裸になって泳ぐ場面を演じます。これが映画史上初のヌードシーンとなりました。また、たくましい若者との濡れ場は、こちらも映画史上初めて女性のオルガニズムが表現されたシーンとなりました。

“初”尽くしの「春の調べ」は世界中で話題になり、ヘディも一躍スターになりました。

結婚生活は「黄金でできた牢獄」

有名になった彼女に言い寄ってきたのが、オーストリアの富裕な兵器製造業者だったフリッツ・マンドル。彼は14歳年下のヘディに金にあかしたプロボーズ攻勢をしかけてきました。マンドルは強気・無慈悲な性格で、ヘディも最初は反発したのですが、そのしつこさに根負けし、1933年、19歳で結婚します。

しかし、その結婚生活は、彼女の言葉を借りれば、「黄金でできた牢獄」でした。嫉妬深いマンドルは自分の妻の裸が他人に見られることを嫌がり、「春の調べ」のフィルムを買い占めようとさえしたのです。

映画界から強引に引退させられ、ヘディは「妻」としての役割のみを押し付けられました。

その上、マンドルは自分もユダヤ系の血を引いているのに、ナチスドイツと懇意で、その邸宅で行われる高級パーティーにはヒトラーとムッソリーニが訪れたことすらありました。

1937年、ヘディはマンドルの傲慢さ、囚人のような生活に嫌気がさし、台頭するナチスドイツへの恐れもあってパリへと脱走します。そして、そこで出会ったハリウッドの映画プロデューサーと即座に契約を結ぶと、翌1938年アメリカに渡りハリウッドデビューしました。この時つけられたキャッチコピーが冒頭の「世界一美しい女性」です。

彼女は数々の映画に出演し、着実に女優としてのキャリアを積んでいきました。

しかし、その一方、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発。元夫の兵器で武装したナチスの潜水艦は、イギリスから北米に疎開する子どもたちを載せた船でも構わず攻撃し、たくさんの犠牲者が出ていました。

女優から一転、潜水艦を退治するシステムを開発

これに心を痛めたヘディは潜水艦を退治する発明をしてやろうと考えました。パートナーは、前衛音楽家のジョージ・アンタイル。

彼は自動ピアノや電子ブザーなどを用いて音楽をつくる一風変わった人でした。テクノの先駆者のような感じでしょうか。

潜水艦をやっつけるには無線誘導の魚雷が有効でしたが、無線誘導には電波妨害が弱いという弱点がありました。それを防ぐにはどうしたらいいか。アンタイルの奥さんが焼きもちを焼いたというほど、ふたりはこの問題に熱中します。

ある日、休憩のためヘディとアンタイルがピアノで連弾して遊んでいると、アンタイルがふざけてふと転調しました。ヘディもそれに合わせます。また、アンタイルが転調する。ヘディもついていく。それを繰り返しているうちに、

「そうだ、無線の周波数もこんなふうに変えていけば電波妨害できなくなるのでは」

このアイデアが「周波数ホッピング」という形で立派に特許となりました。

しかし、軍が外部からの口出しをいやがったために、実用化に至らないまま戦争も終わってしまいました。「周波数ホッピング」の不遇は、その後のヘディの人生を予言するものだったのかもしれません。

女優としての挫折、技術者としての栄光

1945年の「サムソンとデリラ」以降役に恵まれず、1960年代になると映画女優としては廃業状態になります。その心の空隙を埋めるためか、万引き癖を発症。1966年と91年に二度逮捕されています。

1966年に折角出版された自伝もゴーストライターに嘘を書かれたりと散々。1970年代になると引きこもりがちになり、80年代には、世間もこの名女優のことをすっかり忘れてしまいました。

しかし、技術の世界は彼女のことを忘れていませんでした。

1962年、海軍がようやく彼女の特許の改良版を採用。そして、1990年代後半になると、彼女の技術を基にした携帯電話やGPSなどが次々に実用化されはじめます。こうした気運にあわせて彼女の功績を再評価しようという声も高まり、1997年、EFF Pioneer Awardを受賞しました。

晩年には薬物依存症になっていたともいう彼女ですが、その頭脳は衰えを知らず、ヘディと会談した携帯機の技術者は、亡くなる3年前の彼女のことをこう証言しています。

「彼女と話していると映画スターと話している気はまったくしなかった。女性と話しているようにも、老人と話しているようにも感じなかった。ただただ、卓越した技術者、発明家と話しているという感覚だけがあった。一見、脈絡のない技術的な事項が、彼女の聡明な頭脳の中で次々とつながり整理され、アイデアの滝となって口からほとばしる。その様子は壮観ですらあった」

グーグルのロゴにも採用された、ヘディ・ラマー

惜しむらくはスマホがもっと身近になる時代を目にすることなく、2000年に彼女が亡くなってしまったことです。しかし、その死後もエンジニアたちは彼女のことを忘れず、2014年には全米発明家殿堂入り、2015年にはグーグルのロゴにもなっています。

これらの、技術者としての称賛こそが彼女が真に欲しかったものなのでしょう。生前、彼女は女優という職業に対しては次のような言葉をこぼしているのです。その言葉は、今でもすべての女性に共通するため息なのかもしれません。

「誰だってグラマラスな女にはなれるのよ。バカなふりして突っ立ってればいいんだから」

参考文献:Hedy’s Folly: The Life and Breakthrough Inventions of Hedy Lamarr, the Most Beautiful Woman in the World(Richard Rhodes著、Vintage; Reprint edition)、アメリカのめっちゃスゴい女性たち(町山智浩著、マガジンハウス)

黒澤はゆま

この記事を読んだ人は答えてね!
人が回答しています